2021年5月21日金曜日

(2340)  三島由紀夫『金閣寺』(4-1) / 100分de名著

 

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(K1481)  相続登記の義務化 <相続>

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ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と、天に沖している火が見えるだけである。本の間をおびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたようである。私は膝を組んで永いことそれを眺めた。

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第4回  24日放送/ 26日再放送

  タイトル: 永遠を滅ぼすもの

 

 

【テキストの項目】

(1)   周到な準備と天の励まし

(2)   禅海和尚との対話

(3)   二元論を解消する理想の父性

(4)   虚無としての金閣

(5)   金閣放火

 

(6)  「生きようと私は思った」の意味

(7)   なぜ三島は溝口を生かしたのか

(8)  『鏡子の家』での挫折

(9)   三十代後半のトラブル、そして…

(10)終わらせられない人の声としての小説

 

【展開】

(1)   周到な準備と天の励まし

 遊郭に行った翌日から、溝口は金閣放火に向けて周到な準備を始めていました。

 溝口はいよいよ金閣を焼くという目的に向かって動き始めた時、金閣という絶対者を自分の行動によって滅ぼすことができる高揚感に包まれる。行動によって世界が変わり、自分も変わり、それによって自分が生きられるという期待と、死の可能性が自分に緊張感を与えて生を活性化させるということが、複雑に入り組んでいるのがここでの溝口の心理だと思います。

 そして六月二九日の夜、金閣の火災警報器が故障します。翌日、修理工が来るも警報器は直らず、故障はそのままとなりました。「天の励ましの声を聴いた」と溝口が言うように、これはいよいよ運も自分に味方をし始めたと思える出来事でしょう。

 

(2)   禅海和尚との対話

 七月一日、ついにその日が来ました。警報器はまだ故障中で、しかし明日には修理されるといいます。決行は今夜しかありません。ここで突然、その夜たまたま鹿苑寺に来ていた禅海という和尚と溝口が対面するエピソードが挟み込まれます。

 「私を見抜いて下さい」ととうとう私は言った。「私は、お考えのような人間ではありません。私の本心を見抜いて下さい」 … 急に和尚が、世にも晴朗な笑い声を立てたのである。

「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」

 和尚はそう言った。私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になった。その空白をめがけて滲み入る水のように、行為の勇気が新鮮に湧き立った。

 

(3)   二元論を解消する理想の父性

 溝口がずっと苦しんできたのは、実の父が美と現実とに、老師が外見と内面とに分裂していた影響を被り、自らもそうした二元論的な世界観に分裂してしまうことでした。それが、ここに至って禅海によって統合されるのです。

 まず本質があり、それを覆い隠す表面がある、という構造ではなく、本質と表面は常に一体化していて、何か行為をすればそれをした人間になるし、しなければしない人間のままだという、それだけのことに過ぎない。それが禅海の立場です。

 この対話により、溝口を苦しめてきた内面と外界の分離は止揚されました。金閣を燃やせば金閣を燃やした人間になるし、燃やさなかったら燃やさなかった人間になる。溝口の自己認識は明確になりました。

 

(4)   虚無としての金閣

 … そして金閣の板戸の釘を抜き、大書院裏の荷物を金閣に運び入れました。 …

 しかし、「最後の別れを告げるつもり」で仰ぎ見た金閣に、溝口は圧倒されてしまいます。闇に沈んだ金閣=〈現実の金閣〉の上に、溝口の思い出の力をもって「幻の金閣」=〈観念の金閣〉が現れ、その美の細部、そして全体が、ありありと立ち上がったのです。その圧倒的な輝きに於いて、溝口は、細部の未完の積み重ねが「ここには存在しない美の予兆」に連なるという構造を発見し、ついに、「虚無がこの美の構造だったのだ」と確信するに至ります。

 

(5)   金閣放火

 放火を前に溝口はとてつもない疲労に襲われますが、再び気力を取り戻して金閣の中に戻り、藁束にマッチで火を点けました。堂内に炎が燃え広がった時、「この火に包まれて究竟頂で死のう」という考えが突如湧き起こります。この考えは、溝口が戦時中に憧れた、共に滅びることによって金閣と一体化するという夢のフラッシュバツクだと解釈できるでしょう。

 三層構造である金閣の第二層にあたる究竟頂に、溝口は駈け上がろうとしました。しかし、三階の扉は鍵で固く閉ざされ、体当たりをしても開きません。「拒まれているという確実な意識」を感じた溝口は、究竟頂で死ぬことは諦め、階段を駈け下りて炎をくぐり、外に飛び出しました。どことも知れず山道を駈けた溝口は、金閣の北、左大文字山の頂上にたどり着きます。

 ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と、天に冲している火が見えるだけである。 … 私は煙草を喫んだ。一ㇳ仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。

 小説『金閣寺』は、この名高い末文をもって終わります。

 

 以下は、後日書きます。

(6)  「生きようと私は思った」の意味

(7)   なぜ三島は溝口を生かしたのか

(8)  『鏡子の家』での挫折

(9)   三十代後半のトラブル、そして…

(10)終わらせられない人の声としての小説

 

 

<出典>

平野啓一郎(2021/5)、三島由紀夫『金閣寺』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



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