2020年6月18日木曜日

(2004)  カント『純粋理性批判』(4-1) / 100分de名著


◆ 最新投稿情報
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(K1145)  認知症団体が動画公開 <認知症>
http://kagayakiken.blogspot.com/2020/06/k1145.html
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第4回のポイントは「科学が答えてくれない生き方の問題に対して、カントがどのように答えたか」。人間は他者を尊重しながら、社会の一員としてふさわしい道徳的行動を選択できる。理性的判断に、人間の自由がある
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第4回  22日放送/ 24日再放送
  タイトル: 自由と道徳を基礎づける

【テキストの項目】
(1)   それでも人間に自由はある?
(2)   道徳が自由をつくる
(3)   人間が立脚する二つの世界
(4)  「道徳的世界」の根本ルール
(5)   ルールを普遍的なものにする

(6)   理性の究極の関心
(7)   神の存在は「要請」される
(8)   カントが思い描いた理想郷
(9)   カント最大の功績
(10) 道徳の論理的考察は可能か
(11) 共有知として哲学を蘇らせる


【展開】

(1)  それでも人間に自由はある?
 人間も生きものですから、たとえば喉が渇くと「水が飲みたい」という欲求が生じます。水が飲みたくなった原因は、喉が渇いたからです。これは因果律で説明がつきますね。言葉を換えれば、これは自然法則に縛られた現象であって、そこに自由はありません。
 しかし人間は、こうした欲求の言いなりになるだけではありません。喉が渇いたからといって、隣の人のペットボトルを奪って飲んではいけない、と考えることができる存在です。それが正しい行動かどうかを考えて、みずからの行動を自分の意志で選ぶことができるのです。

(2)   道徳が自由をつくる
 カントのなかで道徳が自由と結びついている

   「道徳的に行為する」とは
【×】カントによれば、権力者や宗教者が「正しい」ということを無批判に受け入れて従うのは、権威のいいなりになっていることで、道徳的な価値はまったくありません。
【○】そうではなく、権威や伝統が道徳的に正しいかどうかを主体的に吟味し、理性的判断にもとづいて行動を選択するところに自由はある

   「自由に生きる」とは
【○】つまり、カントにとって「自由に生きる」とは、人のいいなりにならず主体的に考える姿勢であり、そして主体的な判断に従って道徳的に行為することなのです。
【×】押さえておきたい点は、カントのいう自由とは「勝手気まま」「欲望の解放」ではない、ということです。

   時代背景
【時代背景】伝統的に人の生き方に答えを与えてきたのは宗教でした。 … しかし、「自由」の観念が一般化することで、伝統やしきたりと一体化した信仰はその力を失っていきます。
【問題意識】旧来の信仰に代わる、新たな生の目標を示す必要がある――人間が範とすべきものを、宗教という枠組みるからいったん切り離して、人間自身の理性の働きから基礎づけようとしたのです。

(3)   人間が立脚する二つの世界

(一つ目の添付図)
 カント認識論において、外から見た人間の行動は、空間・時間のなかで生じたことですから現象界に属します。しかし同時に、人間の心()は、私たちが認識し得ない「物自体」の世界、叡智界にも属しているとされます。 つまり、認識の対象(客体)としての人間は現象界に属し、その行動は自然法則で説明されるものの、実践の主体としての人間は叡知界に属しているので、その行動は自然法則を超えた「自由な原因生」でありうる、というわけです。
 このように人間はこの二つの世界に属していますから、現象界の人間について語るかぎり自由はなく、叡智的存在としての人間について語るかぎり自由がある。こうして正・反二つの命題もどちらも矛盾なく説明できる、ということになります。

(二つ目の添付図)
 つまり人間は、いつも感性(欲望)と理性の二つによって引っ張られている存在なのです。生身の人間であるかぎり、感性からの影響を完全に脱することはできません。ですが、感性からの影響があっても、それに負けず理性の声に従うようになればなるほど、道徳的に進歩したことになるわけです。
 このように、認識における理性と実践における理性とでは、意味合いがかなり異なりますので、カントは、前者を「理論理性」、後者を「実践理性」と呼んで区別しています。

(4)  「道徳的世界」の根本ルール
 実践理性の描く道徳的世界とは、「理性的存在者(理性をもつ者)からなる国家」であって、そこに自分を含むすべての人間が所属しています。そのメンバーは対等で自由な存在であり、何よりも互いを尊重しあわねばなりません。道徳的世界は、皆が互いを尊重しながら平和に共存する世界なのです。
 この理念ははるか彼方の目的ではなく、直接にいまここで行為することを求めます。理性的存在者からなる国の一員としてふさわしくふるまえ、と。このルールを「道徳法則」と呼びます。

(5)   ルールを普遍的なものにする
 道徳法則
   どんな人も自分なりのルールをもっているけれど、それが自部勝手なものになっていないか、絶えず吟味しつつ行動しなさい
   道徳法則は「権威」から下されるものではありません。人々が互いを尊重しながら共存するためのものであり、それが正しいかどうかは一人ひとりが自分で判断できるものでした。

 ルソーが『社会契約論』で提起した対等で自由な共和国の理想を、道徳的世界として読み替えたところに、カントの道徳法則は成り立っているのです。


 以下は、後日書きます。
(6)   理性の究極の関心
(7)   神の存在は「要請」される
(8)   カントが思い描いた理想郷
(9)   カント最大の功績
(10) 道徳の論理的考察は可能か
(11) 共有知として哲学を蘇らせる


<出典>
西研(2020/6)、カント『純粋理性批判』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



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