2020年6月10日水曜日

(1996)  古橋廣之進と水泳 - 戦後日本に希望を与えたフジヤマのトビウオ / あの頃日本人は輝いていた(7)


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敗戦に打ちひしがれ、歴史上はじめての外国軍隊による占領を体験した日本人を明るくしたものが三つあった。並木路子が歌った「リンゴの唄」。職業野球の復活。古橋廣之進に代表される日本水泳陣の大活躍
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 昭和23年(1948年)、ロンドンで戦後初のオリンピックが開催されることになった。戦後の混乱と食糧不足のなかで、日本大学の古橋と同僚の橋爪四郎は好記録を出していた。オリンピックへの参加を希望した日本はロンドンの組織委員会に参加の申請書を提出した。しかし、参加を拒否された。
 日本水泳連盟が考えたのは、古橋など日本選手の参加が認められないなら、ロンドンのオリンヒック大会と同じ日に日本選手権大会をぶつけて競争しようというプランであった。「もし諸君の記録がロンドン大会の記録を上回るものであれば、 … ワールド・チャンピオンはオリンピック優勝者にあらずして日本選手権の優勝者である。」
 期待に応えて、優勝タイムを大きく上回る好記録が続出した。だが、世界は容易にそれを信じようとしなかった。「プールが短いのではないか」「ストップウオッチが壊れているのではないか」などひどい反応さえあった。

 昭和24年(1949年)8月、日本水泳代表チームはロサンゼルスで開催される全米水泳選手権に出場することを認められた。日本人選手は、アメリカ人選手に圧勝した。
 日本の新聞は号外を発行、ラジオは臨時ニュースでこの快挙を伝えた。占領下にあってアメリカへのコンプレッ-クスにさいなまれていた日本人が、水泳とはいえ、そのアメリカを圧倒したのであった。
 現地の雰囲気も一変した。日系人はもとより、白人、黒人など次々と控室にやってきた。「グレイト・スイマー」、「原爆にもめげずよくやった」。選手は握手攻めに遭い、キャンディ、チョコレート、腕時計、万年筆…山のようなプレゼントに囲まれた。 … しかも、嬉しかったのは敗戦した国民にくれてやるという態度でなく、プレゼントを渡すアメリカ人の目に尊敬の光が宿っていたことだった。受け取る日本人選手も自信と誇りに満ち溢れ、使命を果たした充実感がみなぎっていた。

 競泳日本代表の愛称は「トビウオジャパン」である。「フジヤマのトビウオ」と称された元日本水泳連盟会長古橋廣之進のように、大海を突き進むトビウオのように世界で飛躍して欲しいという意味が込められている(Wikipedia『競泳日本代表』)

古橋廣之進(19282009)
日本水泳連盟会長
 静岡生まれ。日本大学在学中から活躍。戦後、日本選手として初めて渡米し、次々に世界新記録を樹立し、「フジャマのトビウオ」と言われ、戦後の日本人に希望を与えた。全盛期を過ぎて参加したヘルシンキ五輪では惨敗しロ本人を落胆させたが、その後水泳界に貢献し、日本オリンピック委員会の会長も務めた。文化勲章受章。

<出典>
池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)

添付写真は、「古橋廣之進とは?世界記録や伝説、身長・名言・エピソードなどを解説!」



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