2018年11月21日水曜日

(1428) 「可哀想」は時に人を傷つける

 
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(K0569) 「老年内科」で柔軟な医療を <体の健康>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/11/k0569.html
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 Facebook友達の日埜 昭子さんが次の記事をとりあげられました。
 
===== 引用はじめ
「可哀想」は時に人を傷つける
 
 足をけがした6歳の息子が「僕、がんばって幼稚園まで歩くよ」と言った。片足を引きずりながらゆっくりと歩く息子に付き添っていたら、通りすがりのご婦人たちから「あんな足で歩かせて可哀想に」という会話が聞こえてきた。
 息子に妹ができ、おむつを買いに行った。「僕が持つよ。お兄ちゃんだから」と頼もしいことを言ってくれた。任せたら「あんな小さな子どもに荷物を持たせて。可哀想に」と他人から非難された。
 息子の頑張りが「可哀想に」という一言で全否定された気がした。
 「可哀想に」という人は、自分が優しい人間だと思っているのかもしれない。しかし、この言葉は浅はかで無責任で、時に人を傷つけ、何も生み出さない。そのことを知ってほしい。
===== 引用おわり
 
この新聞記事には、ずいぶん反響がありました。
https://fundo.jp/89295
 


 「可哀想」は、辞書的には悪い言葉ではないようです。
「弱い立場にあるものに対して同情を寄せ、その不幸な状況から救ってやりたいと思うさま。同情をさそうさま」(コトバンク)
 

 言葉には、内語と外語とがあります。
内言とは、頭の中で考えるための道具となる、発声を伴わない言語のことです。
外言とは、自分の考えや意見を他人に伝達することを目的とする、発声を伴う言語のことです。
https://www.chiikunote.com/entry/internalspeech
 
 外語になると、聞く人があらわれ、その人がどう受け止めるかという問題がでてきます。発信者の言いたいことと、受信者が受け止めることは必ずしも一致しません。注意しなければいけないと思っています(でも、なかなかうまくいきません)。
 

 記事の場合は、単なる感想ではなく、そもそも非難の気持ちがあるようで、人を傷つけるのだと思いました。
 
 ポイントは、発言者がどこにわが身を置いているかによると思います。息子さんやお父さんに寄り添っていたら、こういう発言はできません。第三者として批判者になっていたから、冷たい発言になったのでしょう。

 


 「かわいそう」議論は以前からあるようで、例えば、以下に様々な意見が寄せられています。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/0225/170883.htm
 
その中から、一部拾い出すと、

===== 引用はじめ
・・・「かわいそう」という言葉が、
 1)自分が身を置いている恵まれた状況への無自覚
 2)自分の優越感をちょっと刺激したいという(隠れた)動機
 3)相手の価値観を尊重する態度の欠如
から出ていると思えるとき、だいたい「悪い意味」で解釈している気がします。
(その際口にする本人に(1-3)の認識が明確にあるかどうかはあまり関係がない)。
===== 引用おわり
(みーちゃ)
 


 「可哀想」という言葉そのものが良いとか悪いとかではなく、発言者がどのような立ち位置で、どのような気持ちで言ったのか、さらに聞いた人がどのように受け止めたのかで、優しい言葉になることもあり、人を傷つけることもあるのでしょう。

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