2018年4月22日日曜日

(1213)  サダーパリブータ/ 『法華経』(4-1) / 100分de名著


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(K0354)  親から声をかけて(高島礼子) <臨死期>
http://kagayakiken.blogspot.jp/2018/04/k0354.html
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第4回 23日放送/25日再放送

  タイトル: 「人間の尊厳」への賛歌
 

===== 引用はじめ
 そして第19章が、『法華経』のクライマックスともいえる「常不軽菩薩品」(第二十)です。この書の内容は、圧巻です。宮沢賢治が「雨ニモマケズ」で「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」としていた「デクノボー」は、この常不軽菩薩をモデルにしていたと言われています。

ちなみに常不軽菩薩は、地涌の菩薩と同様に『法華経』だけに出てくる菩薩です。
===== 引用おわり
 
 この菩薩は原語では「サダーパリブータ」なのだが、筆者によれば「この一語の中に、受動と能動、否定と肯定の組み合わせで4通りに読むことができる掛詞」だそうで、それを踏まえて訳すと、「常に軽んじない[のに、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる]菩薩」となるそうだ。
 
 私の感想だが、これが東洋的な捉え方だと思った。西洋的アプローチだと、先ず言葉を明確に定義し、それを論理的に組み合わせて、真実を明らかにしようとする。しかし、真実は矛盾にみちたもので、論理的に明確にできるものではない。その矛盾をそのまま、ありのままに捉えようとするのが東洋的アプローチで、それを西洋から見ると非論理的となる。東洋では、言葉自体に「非論理的な掛詞」を内包しているので、矛盾に満ちた真実を言語表現できる。この意味において、インドと日本は同じ文化圏だと思った。
 

 さて、この菩薩が何をしているかというと、実に単純なことしかしていない。
 
===== 引用はじめ
 この菩薩は出家の男女、在家の男女の誰であれ、出会う人ごとに近づいて、次のように告げました。
 
「尊者がたよ/ご婦人がたよ、私は、あなたがたを軽んじません。あなたがたは、軽んじられることはありません。それは、どんな理由によってでしょうか? あなたがたは、すべて菩薩としての修行を行いなさい。あなたがたは、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来になるでありましょう
===== 引用おわり


 
 この菩薩は、会う人すべてに「私はあなたを軽んじません」と言った。「会う人すべて」とは、男も女も含む、出家も在家も含む、カーストも問わない。
 
 四衆たちは、この菩薩に対して、そのほとんどすべてが怒り、危害を加え、嫌悪感を生じ、罵り、非難した。この菩薩は、危害を加えられそうになると走って逃げ、安全なところに着くとパッと振り返って「私はあなたを軽んじません」と言った。
 

 さて、この常不軽菩薩はなぜあらゆる人に「あなたも如来になれる」と主張できたのか。講師は次のように考えた。
 
===== 引用はじめ
 この菩薩にも、おそらく自己嫌悪の時代があったに違いない。そうした時代を経て、ある時自分の尊さに目覚めた。だからこそ他人の尊さを信じることができたのではないか――と。“真の自己”に目覚めるがゆえに、自己の存在の重さ、愛しさが自覚できる。それはそのまま、他者の存在の重さ、愛しさを自覚することにもつながります。

 仏教は、自己への目覚めが他者への目覚めへと発展するという形で他者とのかかわりを説いています。 … 「自分はつまらない人間だと思っていたけれど、こんなに尊い命が自分にもあったのだ」と気づいた。だから、人々に語りかけることを続けられたのだろうと思います。
===== 引用おわり
 

 この菩薩は、『法華経』を経典として読んでいなかった。しかし、この菩薩のふるまいはすでに『法華経』の実践だった。
 
 

出典
植木雅俊(2018/4)、『法華経』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

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