2016年5月2日月曜日

(496) 究極の選択:ノーメイクかコテコテか


次のようなトピックスで盛り上がっている(私のFacebookの友達)。

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ええ歳して…
「ノーメイクで人前に出る」のと
「コテコテに塗りたくって人前に出る」のと
 どちらが好感度が高いかなぁ…(* ̄∇ ̄*)
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コメントを書かせてもらって、反応してもらって、私には、とても勉強になった。ありがたいことである。いつものことであるが、私とは違う人がいるということを発見するのは、とても楽しい。さらに「ああ、こういう考え方で人付き合いをすればよいのかな」とヒントをいただいた。

 
第一に、何故これがトピックスとして成立するのかが疑問だった。

 最初は一つの要素を思いついたが、よく考えたら三つあった。
    その人は、ノーメイクが似合うか、コテコテが似合うか
    「好感度で受け止めてほしい人」が、ノーメイクを好むかコテコテを好むか
    メイクの技量はどの程度か

この3要素で、「いまここ」での最適解が見つかる。ここから、私の焦点は移る。「どちらが似合うかをどう見極めるか」「相手の嗜好をどう把握するか」「どのようにメイクの技量を高めるか」

 一方、そのページでは、「ノーメイク派」と「コテコテ派」が、楽しそうに意見を述べ合っている。
 

 第二に、議論している「高感度」とは誰にとってのものか疑問だった。

 私は、相手あるいは第三者の「好感度」をイメージした。それなら、相手・第三者の姿が見えないと議論は始まらない(前述②に該当)。

 しかし、「究極の選択である」として、その前提無しに会話が進んでいる。ということは、「好感度」は相手側にはなく、自分側にあるはずである。相手には関係なく「好感度の高い私」「好感度の低い私」がいることになる

 
 第三に、何のために会話を続けているかが疑問だった。

 私は、無意識に・勝手に正解を求め始める。私的には先の三つの要件を発見できたところで、(少なくとも第一幕は)終わっている。

 しかし、現実は、会話が続いている。

 
 「二つの文化」がぶつかっているのである。どちらが正しいとか、正しくないではない。違う文化なのである。
現実違っているのだから、それにどう適応するかの課題である。


(1)   正解を見つける方法には関心が向かない
(2)   「私は好感度が高い」は、私が決める
(3)   正解を求めるのではなく、会話を楽しむ

「この3点に留意しながら会話すると、女性とすれ違うことが少なくなる」
という仮説を立ててみた。本当か?

 これを、どう検証するか?

 
ますます、楽しくなってきた。

 
 ちなみに、(1)は正に、前回(495)で取り上げた、「Yes / No 」課題である。

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