2020年11月8日日曜日

(2144)  朝鮮戦争の勃発とサンフランシスコ講和条約、日米安保条約 / 吉田茂(3) / あの頃日本人は輝いていた(16-3)

 

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吉田全権の受諾演説。随員が手分けし毛筆で巻紙に清書した。「この条約は復讐の条約ではなく…」。巻紙を繰りながら原稿を淡々と読み上げる姿に各国全権は「あのキングサイズトイレツトペーパーは何だね」と言った

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【朝鮮戦争】

 1950625日未明、朝鮮戦争が勃発した。国連軍が出動することになったが、その大半は日本を占領していたアメリカ軍であつた。占領軍が日本から去ると治安に空白が生まれる。それを埋めるため、ダレスから再軍備の要請がなされた。吉田は三つの理由を挙げてこれを拒否する。

(1)  財政的に不可能である

(2)  近隣諸国は不安に思うであろう

(3)  憲法上の制約がある

 しかし、吉田はしたたかであつた。75,000人からなる警察予備隊を創設したのだ。「名は与えないが実は与える」、この警察予備隊が保安隊を経て今日の陸海空三自衛隊になったことはいうまでもない。

 

【サンフランシスコ講和条約】

 19519月、サンフランシスコで開催された講和会議では、あらかじめ米英が作成した案がそのまま通過した。吉田全権は日本語で受諾演説をおこなった。この条約に不満のソ連、ポーランド、チエコは署名せず、四十九ヵ国が調印した。中国は北京と台北二つの政権に分かれていたためどちらの代表も招かれていなかった。

 

【日米安全保障条約】

 サンフランシスコ講和条約が結ばれた日、吉田は別の場所でもうひとつの条約にサインした。日米安全保障条約であった。講和後も米軍が安全保障のため日本に駐留し、日本側は基地を提供することを定めた条約に吉田は一人で署名したのであった。講和条約は全権団全員がサインしたのに対し、安保条約は吉田のみが署名したのは、国内で反対の多かった安保条約だけに自分一人で責任をとろうとしたのである。 

【吉田茂の評価】

 敗戦国の首相としてユーモアのセンスもあり、己の信念を曲げず「軽武装、経済復興優先」で戦後日本の方向を定めたその姿勢は「吉田学校の優等生」といわれた池田勇人、佐藤栄作など有能な後継者を育てたことを含め、後年改めて高く評価されるにいたったのは当然であつた。

 

<出典>

池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)

 

写真は、

https://ironna.jp/theme/108



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