2020年9月17日木曜日

(2094)  錦織圭とテニス - 日本が生んだ国際的プレーヤー / あの頃日本人は輝いていた(14)



◆ 最新投稿情報
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(K1235)  朝は希望に起き、昼は努力に生き、夜は感謝に眠る <長寿>
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錦織は以前、日本でのイベント時に眠りについて「昔から趣味みたいなところがあって、寝るのが一番好きだったので、またどこにいても寝れるタイプの人間で、車だったり飛行機でもすぐ眠りに落ちてしまいます」
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厳しいトレーニングのたまもの?錦織圭が一風変わった昼寝姿を公開
 
 
(1)  錦織圭の生い立ち
(2)  アメリカ留学とテニスの進化
(3)  プロとしての錦織圭
(4)  リオデジャネイロ・オリンピックの快挙
(注)この本の発行は、2017年です

<展開>
(1)  錦織圭の生い立ち
 柏井はストロークなど圭の技術の高さに驚くと同時に、自分の戦術に相手をはめて点を取る能力に注目した。そうした圭の能力を柏井は「勝負事」と遊び心を刺激してさらに高めていった。通常の練習の後には必ず試合形式のポイント練習を入れ、コートのべースライン付近にベンチを置いて九球中何球当てられるか、チャレンジの前に自分の目標球数を宣言して挑戦する「ナインボール」など楽しみながら上達するやり方をつぎつぎ実行していった。

(2)  アメリカ留学とテニスの進化
 やがて思わぬことから、アメリカへの留学のチャンスが生まれることになった。盛田テニスファンドを利用しての渡米であった。
 盛田正明が、日本テニス協会の会長を務めて気が付いたのは「日本人選手は日本では外国からの選手と対等な試合をするが、海外に出ると選手同士会話もできない、食堂でもひとりで隅の方でポツンとしている。これではだめだ」。定年後盛田ファンドを設立、アンドレ・アガシ、マリア・シャラポアなど世界的テニスプレーヤーを育てたアメリカのIMGアカデミーに日本から選手を送ることにしたのだ。
 圭がプロになることを宣言したのは、アカデミーで学んで5年目、17歳の時であった。

(3)  プロとしての錦織圭
 初戦に勝った錦織を相手にしたロディックは威圧する態度にでた。錦織の強打が正面をつくと「俺を狙ったのか。それだったら当ててみろ」とどなりつける。ファーストサービスをミスした圭がふてくされてポケットから出したボールを高く上げると、すかさず「あれはセカンドサービスだろう。だったらダブルフォールトじゃないか」と審判に執拗な抗議を繰り返す。トッププレーヤーによる威嚇。それは錦織の神経をかき乱すものだった。もちろんゲームは一方的な敗退、 「勝つためにはなんでもやるさ」と言い放つロディックに対し、ロッカールームで錦織はタオルをかぶって泣き続けた。

(4)  リオデジャネイロ・オリンピックの快挙
 順調に勝ち上がった圭は、準決勝でイギリスのマレーと対戦したが、完敗した。他の大会ならここで終わりだが、オリンピックには三位決定戦が翌日に設定されていた。
 準決勝が一時間二十分で済み、疲れを残さなかったのが幸いした。一方、メダルがかかった相手のナダルは、シングルス五試合のみにしぼった錦織に対し、ダブルスにもエントリーし十試合に出場、しかも前日には三時間を超す試合をこなし疲労い色は隠せなかった。
 圭は第一セットを先取、第二セットも52とリード、銅メダルまであと一ゲームと迫った。ここでメダルを意識したのか動きが鈍くなり逆転を許す。流れはナダルにいったと思われた。
 ファイナルセットに入る前、トイレットブレークからなかなか会場に戻らない錦織に普段冷静なナダルが猛抗議する。イライラするナダルに対し、圭は冷静な試合運びで第三セットをとり、遂に日本に九十六年振りのメダルをもたらしたのであった。

<出典>
池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)
 
写真は、



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