2020年1月16日木曜日

(1849)  意思の力は必要だが、十分でないこともある / 続・そごうの広告(6)

 
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(K0990)  絵日記「老人ホームに恋してる。」 <介護>
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意思の力は、問題解決のための必要だが、それだけでは十分でないこともある。(強くできない)意思の力の不十分さを補うのは「願い」「希望」「祈り」だ。意志の力は自己依存。自己の外から力を得ることも必要だ
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 (1847)からの続きです。
(1847)  否定(絶望の悪循環)で終わらせない方法 / 続・そごうの広告(5)
http://kagayaki56.blogspot.com/2020/01/1847-5.html
 
 
 はたして、意思の力で解決できるのでしょうか。
 意思の力は、問題解決のための必要だが、それだけでは十分でないこともあります。問題解決のために意志の力が必要だが、意思の力があっても問題解決できるとは限りません。

 よく「私は意志が弱くて」と悩んでいる人がいますが、それは筋違いだと思います。


(1)  人間の意志というものはそもそも強くできていないので、「意志が弱い」のは当たり前である。それで自分を責めるのはおかしい
(2)  世の中には、意志の力だけで解決できないことの方が多い
(3)  うまくいかなかった原因はたくさんある。「意志が弱かったからできなかった」と決めつける根拠はない。思い込みだ
(4)  「私は意志が弱くて」と悩んでも、解決に何の役にも立たない。「意志を強く持とうと決意すれば意志が強くなる」のなら、誰も苦労しない
(5)  「私は意志が弱い」に全ての責任を負わせ、すべきことから逃れようとしていないか
 
 問題解決のために意志の力が必要だが、そう頼れるものでもありません。では、意思の力が頼みにならないとしたら、何を頼りにすればよいでしょうか。私は、「願い」「希望」「祈り」だと思います。
 
 願いには、ここでは、マズローの5段階欲求「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」の全てを含みます。頭で考えた願いと魂の願いが一致していなければなりません。本当の自分の願いが何なのか、案外わかっていないものです。内省し、深く探していかねばなりません。願いは意志の原動力となり、希望と祈りの基礎となります。
 希望は、ここでは、「それが実現できるかどうか分からないし、どうすれば実現できるかもわからないけれど、それが実現された姿をありありと思い浮かべられる」ことを指します。希望の光は、理屈抜きに、到達点の存在を信じさせてくれます。今どうすればよいか分かっていなくても、いずれ解決できると信じられます。
 祈りとは、ここでは、「自分の力ではできないいう謙虚さを持ちつつ、誰かの安寧を願う」ことです。祈りは己の無力さを前提とし、他者への祈りは力を与えてくれます。「祈る」というより、「祈られずにはおられない」というのが、祈りの本質だと私は思います。
 
 意思の力を強くしようとしても限界があります。意思は「強くする」ものではなく、「強くなる」ものです。意志の力は自己依存です。自己依存に限界が来たとき、自己の外から力を得るとよいでしょう。
 
 「願い」「希望」「祈り」があるレベルで揃ったとき、意思は自ずと強くなり、絶望のストーリーを希望のストーリーに変えることができるようになります。「願い」「希望」「祈り」のない意志の力は、とっても弱いものだと私は思うのです。意志を強くしようとするだけでなく、自分にとって「願い」「希望」「祈り」とは何なのか、じっくり考えてみるのも有意義でしょう。
 
 続く

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