2019年10月19日土曜日

(1761)  西田幾多郎『善の研究』(3-2) / 100分de名著

 
◆ 最新投稿情報
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(K0902)  私はロコモ? <体の健康>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/10/k0902.html
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「読む」と「書く」は、呼吸の関係。「読む」は吸う、「書く」は吐く。西田は、じつに深く「読み」、深く「書いた」。私たちも「書く」という行為を通じて、『善の研究』をより深く「読む」ことができるようになる
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第3回  21日放送/ 23日再放送

  タイトル: 「純粋経験」と「実在」
 
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 
 
【テキストの項目】


(1)  西田哲学の「骨(コツ)」をつかむ
(2)  「実在」とは何か
(3)   ありのままの世界
(4)  「不可知」なもの
(5)  「純粋経験」とは何か
 
(6)  「メガネ」を外して世界を見る
(7)   日常の再発見
(8)   柳宗悦と「裸の眼」
(9)   わたしの哲学
 


【展開】

(1)    西田哲学の「骨(コツ)」をつかむ
(2)  「実在」とは何か
(3)   ありのままの世界
(4)  「不可知」なもの
(5)  「純粋経験」とは何か

 以上は、既に書きました。


(6)  「メガネ」を外して世界を見る

 西田は「純粋経験」を妨げるものとして、①思想、②「思慮分別」、③「判断」の三つがあると述べています。別ないい方をすれば、この三つから自由になることが「純粋経験」の始まりだということになります。
 私たちは日常、何重にも重ねられたさまざまな「メガネ」を通して眺めてしまいます。「メガネ」をしていることに気がつけばそれを外すこともできます。「純粋経験」とは、ある意味では「メガネ」を外して世界を見ることにほかなりません。
 

(7)   日常の再発見

 人間は日々の生活で「知的直観」を深く経験し、体現している。しかし、そのことに私たちはあまり自覚的ではありません。問題は「知的直観」が働いていないことではなく、それを自覚できていないことなのです。
 私たちは「実在」を外の世界ではなく内なる自分に見なければならない。日常で「純粋経験」を生きてみなくてはならないことになります。
 

(8)   柳宗悦と「裸の眼」

 『善の研究』で述べられていることを芸術の現場で確認する。ここには大きな可能性があります。「民藝」を提唱した柳宗悦はその先駆けとなった人物です。
 「思想」から離れた「裸の眼」で、好き嫌いとは別なところで、日々、新たに世界と向き合う。そこに「美」が姿を顕わす、と柳はいうのです。ここで述べられているのは、西田が説く「純粋経験」そのものです。
 

(9)   わたしの哲学

 『善の研究』の書名は、最初は「純粋経験と実在」でした。西田にとっては「実在」あるいは「純粋経験」とは何かを「考究」することが、この本における中核的問題でした。「考究」とは「考える」ことを究めることです。あるいは存在の究極点に向かって考えを展開することです。しかし、「考究」という営みは、非常に困難なものです。
 そこで提案したいのは、西田が『善の研究』を書くことによって「わたしの哲学」を発見しようとしたように、読者である私たちもそれぞれの「わたしの哲学」を書く、すなわち「論究する」ことなのです。
 西田のように「考究」する前に「論究」してみる。すなわち、私たちも自分の問題を「論じる」ことを通じて、西田が究めようとした「考究」に近づくことができると思うのです。
 西田がそうしたように、自分の切実な経験、切なるおもいを言葉にしてみる。この素朴な「書く」という行為こそが「読む」ことを深めていくのです。
 


<出典>
若松英輔(2019/10)、西田幾多郎『善の研究』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

 

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