2019年10月18日金曜日

(1759)  西田幾多郎『善の研究』(3-1) / 100分de名著

 
◆ 最新投稿情報
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真に思想書を読むとは、そこに記されている情報をすべて知ろうとすることではなく、その本質である「骨」のようなものをつかむこと。「実在」と「純粋経験」は対の言葉。単純に受け取り、徐々に深めればよいと思う
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第3回  21日放送/ 23日再放送

  タイトル: 「純粋経験」と「実在」
 
【テキストの項目】

(1)   西田哲学の「骨(コツ)」をつかむ
(2)  「実在」とは何か
(3)   ありのままの世界
(4)  「不可知」なもの
(5)  「純粋経験」とは何か

(6)  「メガネ」を外して世界を見る
(7)   日常の再発見
(8)   柳宗悦と「裸の眼」
(9)   わたしの哲学
 

【展開】

(1)  西田哲学の「骨(コツ)」をつかむ

 …偉大な思想家の書を読むには、その人の骨というようなものを摑まねばならない。そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならなければならない。偉大な思想家には必ず骨というようなものがある。大なる彫刻家に鑿の骨、大なる画家には筆の骨があると同様である。骨のないような思想家の書は読むに足らない。
 真に思想書を読むとは、そこに記されている情報をすべて知ろうとすることではなく、その本質である「骨」のようなものをつかむことだというのです。
 

(2)  「実在」とは何か

 私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた。
 哲学の原点とは、何か特別な理論や、特定の思想にあるのではなく、私たちの日常の直感的な経験にこそある、というのです。
 

(3)   ありのままの世界

 「実在」を感じるには、世界をありのままに感じなければならない、と西田は繰り返し語っています。
 しかし、この「ありのままの世界」を感じることが簡単ではありません。私たちがそれをさまざまなもので覆い、見えなくしてしまっているのです。「ありのまま」を覆うものが剥がれ落ちたとき、「実在」がその姿を顕わします。西田がある時期、禅に打ち込んだ … 。禅とは、、結局、この「ありのままの世界」を全身で認識することにほかなりません。
 気づかないうちに「実在」を覆ってしまっているもの、それが私たちの価値観や世界観です。
 

(4)  「不可知」なもの

 …第二編に位置する「実在」は、「考研の出立点」という章から始まり、「実在としての神」という章で終わります。
 … 彼にとっての「神」は現代人が通常考えている「神」ではありません。それは、根本的には「不可知な存在」でした。存在することは確かだが、知り尽くすことができないもの、それが「不可知」なものです。
 西田のいう「神」は、それを知り得ないという経験を通じて深く認識される何か、といってもよいと思います。
 

(5)  「純粋経験」とは何か

 西田はここで、「経験」――すなわち「純粋経験」――とは「事実に従うて知る」ことだといいます。 … 純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、豪も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。
 「純粋経験」と「直接経験」は同義であり、それは「自己の意識状態を直下に経験」することである、とも述べています。 … 西田は、さまざまな書籍や情報を水平的に集めて自分に「ついて」知ろうとするのではなく、自分「を」垂直的に深く見つめる道を読者の前に開こうとしています。
 

 以下は、後に書きます。

(6)  「メガネ」を外して世界を見る
(7)   日常の再発見
(8)   柳宗悦と「裸の眼」
(9)   わたしの哲学


<出典>
若松英輔(2019/10)、西田幾多郎『善の研究』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

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