2019年10月12日土曜日

(1754)  西田幾多郎『善の研究』(2-3) / 100分de名著


◆ 最新投稿情報
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(K0895)  特殊詐欺は命まで奪う <詐欺被害>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/10/k0895.html
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西田は「利己主義」の対義語を「利他主義」ではなく、「個人主義」であると書いた(現在の用法と違う)。西田にとって「個人」とは、つねに「他者」と共にある存在だった。だから、その開花が至高の「善」になる
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第2回  14日放送/ 16日再放送

  タイトル: 「善」とは何か

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25


【テキストの項目】

(1)   哲学の「目的」
(2)  「自己」の世界にふれる
(3)  「大なる自己」と「小なる自己」
(4)   我を手放す
(5)  「無心」の世界
(6)  「善」の定義

(7)   仏性を生きる
(8)   利他の哲学
(9)   体現される「善」
 

【展開】

(1)   哲学の「目的」
(2)  「自己」の世界にふれる
(3)  「大なる自己」と「小なる自己」
(4)   我を手放す
(5)  「無心」の世界
(6)  「善」の定義
 以上は、既に書きました。
 

(7)   仏性を生きる

 仏法によって開花させられた仏性をいきること、それが道元にとっての最高の「善」でした。仏性とは、万人のなかに存在する「仏」になろうとするはたらきです。仏法は、「仏性を開花させるはたらき」です。仏法は、万人に豊かに備わっている。しかし、それは修行しなければ顕れない。道元のいう修行はもちろん座禅です。
 真の禅者の目覚めは、その個人の出来事では終わりません。それは、個の中で起こり、無数の他者に広がるものです。
 

(8)   利他の哲学

 「善」は概念として語られるものではなく、「行為」によって体現されるべきものである、と西田は考えていました。行為とは、その目的が明瞭に意識せられて居る動作の謂いである。西田がいう「目的」とは、「善」を求める本能的な衝動のことです。
 富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるものではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。ここでの「人格」は、人間を人間たらしめているはたらきのことですから、「いのち」と理解してよいと思います。「人格的要求」に従っているとき、私たちは、自ずから自分だけでなく他者の「いのち」をどこまでも尊ぶ。
 西田は「利己主義」の対義語を「利他主義」ではなく、「個人主義」であると書いています。西田にとって「個人」とは、つねに「他者」と共にある存在だったのです。だからこそ、その開花が至高の「善」になる。むしろ、他者と共にいなければ真の「個人」にはなり得ないというのです。
 

(9)   体現される「善」

 「利己」は、狭い意味での「自分」と結びつきやすいのに対して、「利他」は「人類」という地平へと私たちを導きます。西田がいう「人類」もまた、自然と共生し得るという意味での「人類」です。「善」というものは、生きとし生けるものと直接向き合ったときの行為の中においてのみ顕現すると西田はいいます。
 「善」を体得するためには、外に探しにいってはならない。見出さなくてはならないものは、すでに私たちの中にある。獲得するのではなく、すでにあるものを見つけようとするところに「゛善行」が生まれる。
 

<出典>
若松英輔(2019/10)、西田幾多郎『善の研究』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

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