2019年10月11日金曜日

(1752)  西田幾多郎『善の研究』(2-2) / 100分de名著

 
◆ 最新投稿情報
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(K0893) 感情を伴った記憶は残る <認知症>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/10/k0893.html
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ありのままの世界を私たちは、価値、言葉、感覚、意味などによって「切り取って」いる。そうした判断が入る以前の世界のことを西田は「知意未分以前」と表現している。鈴木大拙は「無心」という言葉で表現している
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第2回  14日放送/ 16日再放送

  タイトル: 「善」とは何か
 
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 


【テキストの項目】

(1)  哲学の「目的」
(2)  「自己」の世界にふれる
(3)  「大なる自己」と「小なる自己」
 
(4)   我を手放す
(5)  「無心」の世界
(6)  「善」の定義
 
(7)   仏性を生きる
(8)   利他の哲学
(9)   体現される「善」
 


【展開】

(1)  哲学の「目的」
(2)  「自己」の世界にふれる
(3)  「大なる自己」と「小なる自己」

 以上は、既に書きました。
 

(4)   我を手放す
 「ただ翻身一回、此智、此徳を捨てた所に、新たな智を得、新たな徳を具え、新たな生命に入ることができるのである。これが宗教の神髄である」。「翻身」とは「回心」のことです。わが身を己れの方にではなく仏の方に向けて生き直すことです。
 真の意味において「宗教的」であるとは、我を忘れ、我を手放し、神仏によって与えられる新しい叡知、新しい徳を体得し、新しい生命を生きることだというのです。
 新たな叡知や徳は、いわゆる「知識」や「意思」によってもたらされることはない、と西田は断言します。「宗教」との交わりが不可欠であることを強調します。
 
(5)  「無心」の世界
 「我々は知識においてまた意思において意識の統一を求め主客の合一を求める、しかし、こはなお半面の統一にすぎない、宗教はこれらの統一の背後における最深の統一を求めるのである、知意未分以前の統一を求めるのである」。「知意未分」とは私たちが個人の意識によって世界を価値づける以前の、ありのままの状態です。
 そのありのままの世界を私たちは、価値、言葉、感覚、意味などによって「切り取って」いるのです。そうした判断が入る以前の世界のことを西田は「知意未分以前」と表現しているのです。それを西田の盟友であった鈴木大拙は「無心」という言葉で表現しています。
 「主客の合一」の境地では不十分である。その奥へも進まねばならない。そうした状態を西田は「神人合一」といいます。私たちの生の意味は、自分が「自分」だと感じているものを育てることではなく、「自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神」を生きてみるという「実験」を実践するところにある。
 「神人合一」の状態で真に「宇宙的精神」がはたらくとき、そこに顕現するのが「愛」にほかなりません。
 
(6)  「善」の定義
 社会生活における「個」と、他者と共にある「個」は両立し得ます。この二つの「個」が共に開花することが、西田のいう「善」なのです。彼にとって「善」とは「大いなる自己」の開花であり、それに基づいて「行為」することなのです。
 「善とは自己の発展完成 self-realization であるということができる。即ち我々の精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である」。「種々の能力」には身体的な機能も含まれますが、何よりも大切なのは「知と愛」、内なる叡知と自他を超えた愛の顕現です。
 人が、真の意味で「自分」であること以上の「善」はない。
 


 以下は、後に書きます。

(7)   仏性を生きる
(8)   利他の哲学
(9)   体現される「善」


<出典>
若松英輔(2019/10)、西田幾多郎『善の研究』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

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