2019年10月5日土曜日

(1747)  西田幾多郎『善の研究』(1-2) / 100分de名著

 
◆ 最新投稿情報
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「主客合一の作用」すなわち自分と対象が一つになろうとするとき、知と愛が共に動き始める。世界は「あたま」だけでなく「こころ」のはたきもあって認識される。両者が一つになったとき「真実性」への扉が開かれる
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第1回  7日放送/ 9日再放送
  タイトル: 生きることの「問い」
 
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 


【テキストの項目】

(1)  「問い」の哲学
(2)   言葉を再定義してみる
(3)   飢えた心を癒した哲学
(4)   西田哲学の出発点
(5)  「認知」と「認識」の違い
(6)  『善の研究』を読む態度
 
(7)   全体像を把握する
(8)  『善の研究』を読む順序
(9)   最初に読むべき「知と愛」
(10) 知のちからと愛のはたらき
(11)「主客合一の作用」とは
(12)「私」が「わたし」に出会う
 



【展開】
 
(1)  「問い」の哲学
(2)   言葉を再定義してみる
(3)   飢えた心を癒した哲学
(4)   西田哲学の出発点
(5)  「認知」と「認識」の違い
(6)  『善の研究』を読む態度

 以上は、既に書きました。
 

(7)   全体像を把握する

 書かれた順番にこの本の章立てがなされているわけではありません。
 この書は第二編[実在]第三編[善]が先ず出来て、第一編[純粋経験]第四編[宗教]という順序に後から附加したものである。
 「純粋経験」の編(第一編)は西田の「根底」の問題です。「実在」の編(第二編)は、哲学の始まりでした。「善」の編(第三編)は、自己が開花する道程を論じたものであり、「宗教」の編(第四編)は、帰着点を示したものです。
 

(8)  『善の研究』を読む順序

 この本は編を追うごとに平易になっていくので、逆の順序でこの本を読み解いていきます。
 第四編「宗教」→第三編「善」→第二編「実在」→第一編「純粋経験」
 

(9)   最初に読むべき「知と愛」

 最初に読みたいのは第四編の最後に「付録」のように置かれている「知と愛」という随想です。「知と愛」とは愛知、すなわち哲学(フィロソフィー)のことです。
 

(10) 知のちからと愛のはたらき

 「知る」と「愛する」という営みは、一見すると二つの異なる認識の方法のように映る。しかし、そうではない、と西田はいいます。それらは「主客合一の作用」、すなわち自分と対象が一つになろうとするとき、共に動き始めるものだと考えています。
 

(11)「主客合一の作用」とは

 もし、「主客合一の作用」がなければ、私たちは美しい絵画を見ても、あるいは音楽を聴いても感動することはありません。悲しむ他者の姿を見て、涙を流すこともありません。道端に咲く花にいのちを認識することもありません。
 私たちは日々、――西田が説くように完全にではありませんが――「主客合一の作用」を経験しています。
 

(12)「私」が「わたし」に出会う

 「親が子となるが故に子の一利一害は己の利害のように感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである」。別の表現でいうと「無私」になります。無視とは、私が全身を投げ出せるような状態、私たちが「私」をなくすことのできる状態のことです。
 別ないい方をすれば、親が子となり、子が親となるというのは、ともに「私」が主語ではなくなる状態ともいえます。「私」が主語になると、世界はとても狭くなる。「私」がいなければ世界は存在しなくなるかもしれない。しかし、「私」が深くなっていくと、表層意識の「私」ではない本当の自己である「わたし」が世界の底にふれていこうとする。この状態が、西田のいう「善」の世界なのです。
 


<出典>
若松英輔(2019/10)、西田幾多郎『善の研究』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

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