2019年10月3日木曜日

(1745)  西田幾多郎『善の研究』(1-1) / 100分de名著

 
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『善の研究』で西田が取り上げた「知と愛」「宗教」「善」「実在」「純粋経験」等々。私の知っている「宗教」を一度捨て、「宗教」を真っ白にして、その真っ白なところにメモ書きを書き込んで自分の解説書をつくる
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第1回  7日放送/ 9日再放送
  タイトル: 生きることの「問い」
 
 
【テキストの項目】


(1)  「問い」の哲学
(2)   言葉を再定義してみる
(3)   飢えた心を癒した哲学
(4)   西田哲学の出発点
(5)  「認知」と「認識」の違い
(6)  『善の研究』を読む態度
 
(7)   全体像を把握する
(8)  『善の研究』を読む順序
(9)   最初に読むべき「知と愛」
(10) 知のちからと愛のはたらき
(11)「主客合一の作用」とは
(12)「私」が「わたし」に出会う
 

【展開】

(1)  「問い」の哲学

 西洋哲学とのたたかいを経て、新しい言葉によって叡知の世界を語る、という意味では西田は、日本で最初の哲学者だといってよいと思います。当時の日本に体系だった哲学は存在しておらず、西田は彼が直面していた「問い」を深化させることができることができる文体を発明しなくてはなりませんでした。誰も歩いていない困難な「哲学の道」を切り拓いた人だったのです。
 

(2)   言葉を再定義してみる

 彼にとって「経験」とは、個から出発して個を超えていこうとすることでした。また、「思惟」は、単なる「思考」の延長ではなく、「考える」という行為を通じて「個」を超えていこうとする試みだというのです。
 現代を生きる私たちは、個人がそれぞれの「経験」を深めていく、と考えがちです。しかし、西田は、個は、「人類の経験」によって形成されている、と考えています。
 

(3)   飢えた心を癒した哲学

 西田は、学問もさまざまな営みも、究極的には「人情」のためにする、と述べています。ここでの「人情」は、単に情け深いということを意味するのではありません。それは人間の心の不思議と置き換えることができるのではないかと思います。
 彼にとって「哲学」とは専門家がものごとを考えるための道具ではなく、市井の人が人生と深く交わるためのものであり、そういった哲学を生み出したかったのです。
 1947年、『西田幾多郎全集』第一巻発売の三日前から書店の前に列ができ、前夜にはおよそ200人が行列を作ったといいます。戦後2年しか経過していないこの時期、人々の心もまた飢えていました。
 

(4)   西田哲学の出発点

 真理は一つであり、それは「知識(知ること)」と「実践」の両方を伴わなければならない。人は何をすべきか、どう安心を得るかの前に、まずこの真の実在とは何かを明らかにしなければならないというのです。
 ここで西田は「実在」を認識するためには「実践」が必要だといいます。西田における「実践」、その一つが座禅、すなわち参禅の経験でした。
 

(5)  「認知」と「認識」の違い

 「認知」は、科学的に、客観的に、あるいは再現可能に理解することです。しかし、「認識」は違います。それは、個々の人間が、それまでの経験を踏み台にして、心身の両面で理解を深めていくことです。
 人は、同じことを認知しながら、個々別々の世界を認識し、生きている。世界は一つである一方で、100人いれば100通りの世界がある。それが、この世界の現実だというのです。
 

(6)  『善の研究』を読む態度

 『善の研究』を読むという経験は、山頂を目指していくというよりも、彼と一緒に山中を迷っていくことにほかなりません。暗い道を、微かな光に導かれつつ、彼が歩く。私たちもその道を歩いてみることで、西田と一緒でなければ見ることのできないような存在の深みを垣間見ることができる。それがこの本を読む醍醐味です。
 


 以下は、後日書きます。

(7)   全体像を把握する
(8)  『善の研究』を読む順序
(9)   最初に読むべき「知と愛」
(10) 知のちからと愛のはたらき
(11)「主客合一の作用」とは
(12)「私」が「わたし」に出会う
 

<出典>
若松英輔(2019/10)、西田幾多郎『善の研究』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

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