2019年6月21日金曜日

(1641)  勇気の系譜 第一部 使命(2)  島田叡さん

 
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 昭和20年1月上旬の早朝、大阪府内政部長だった島田は、府知事の池田清から沖縄知事就任の打診を受けた。前任者は「出張」と称したまま、本土から戻っていなかった。
 しばしの沈黙の後、島田は何事もなかったような表情で受諾した。動揺したのは池田の方だった。池田は、島田が家族と相談することを想定し、あえて出勤前に伝える気遣いも見せていた。
 
 池田に対し、島田はこう伝えたという。「私が断れば、誰かが代わりに行く。それはできない」
 昭和20年4月、米軍が沖縄本島に上陸するが、島田が赴任したのはその約3カ月前。米軍の上陸を目前にしての赴任は死を意味していた。
 
 島田は沖縄に赴任後、県民約10万人の疎開を陣頭指揮し、食糧難の打開策として台湾米の入手に奔走した。官尊民卑の風潮が強い中、疎開の大切さを訴えるため村々まで分け入り、住民と泡盛を酌み交わした。最終局面を前に精神論を振りかざし、手をこまねくのではなく、知事として沖縄のためにやるべきことを尽くした。
 
 その後、日本軍は追い詰められ、島田は6月、ガマの中で県庁を解散する。その場にいた職員らに「女、子供に米軍は手を出さない。捕虜になりなさい」「生きて復興のためにがんばってくれ」と話し、摩文仁(まぶに)と呼ばれる地域で消息を絶った。
 島田の知事在任期間はわずか5カ月ほど。遺骨も見つかっていない。
 

 島田については、戦意高揚を鼓舞したとして一部で評価に懐疑的な見方もある。一方、戦後の混乱期だった昭和26年、沖縄県民らが資金を出し合い、島田が消息を絶った沖縄・摩文仁(まぶに)に島田らをまつる「島守の塔」を建立している。終戦から74年。島田が「島守」として今も語り継がれていることは事実だ。
 


<言葉>

困難は人の真価を証明する機会なり
   エピクテトス(哲学者)

わが行く道に茨多し されど生命は1つ この外に道なし この道を行く
 武者小路実篤(作家)
 

<出典>
【勇気の系譜 第一部 使命】 島田叡さん(上)(下)
(上)覚悟の沖縄赴任 最後の官選知事
   「生きよ」激戦地で消息絶つ   産経新聞(2019/06/02)
https://www.sankei.com/west/news/190602/wst1906020005-n1.html
 
(下)終戦74年 「島守」として今も
   沖縄県民に愚直に寄り添う   産経新聞(2019/06/03)
https://www.sankei.com/west/news/190602/wst1906020013-n1.html

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