2019年5月20日月曜日

(1608)  時をつかめば、命が現れ、運が変わる(2) (運命論。100分de名著『平家物語』番外編)

 
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 前回からの続き。
 
【展開】
 
1.   「運」は直接変えられない(他動詞ではない)。「運」は変わり、「運」の働きも変わるものだ(自動詞だ)

1.1.  ここでは「運」を「自ら直接コントロールできない巡り合わせ」と捉える
 
1.2.  運は変えられないが、運が変わることがある
 運を意図的に変えることはできないが、運が変わることはある。善行により運が良くなり、悪行により運が悪くなる可能性が高い。運は固定されているのではなく、状況により変わる。
 行動により運が直接変わるのではなく、周囲の人を媒介する。善行は人を味方にし、悪行は人を敵にする可能性が高い。味方は好意的な反応をし、敵は悪意に満ちた反応をする可能性が高い。個々には例外があるが、たくさんの行動の積み上げが、運を変えていく。直接変えたのではなく、変わっていったのである。
 
1.3.  運のはたらきは変わる
 運は変えられず、変わるにも限界がある。いくら善行を積んでも、「運が悪い」こともある。それからが本当の「運の良い人」と「運の悪い人」の分かれ道になる。
 「運の悪い人」は運の悪さを嘆き、運が悪いには原因があるはずだと、自分を責めたり、誰かを責めたりする。そもそも運とはとらえず、悪意ととらえることもある。悪かった運はそのまま悪いままで続く。
 「運の良い人」は、運の悪さを受け入れ、そこをスタートとして最善の行動を模索する。そして、「時をとらえ」(後述)運を切り開こうとする。彼らは決まって言う。「私は運が悪かったが、それをバネにして頑張り、今の私がある。あの不運が無ければ、幸せな今の自分はないだろう」
 
1.4.  運には2種類あるように見えるが、分けることに意味はない
 ある分岐点でいずれを選ぶかによってその先が変わるような運と、分岐点はなく否応なくある方向に流されていくような運とがある。通常、後者を「運命」という。しかし、両者の違いは、我々に分岐点が見えているか見えていないかの違いであり、分岐点が本当にあるのか、あったのかは不可知である。意味のある違いを判別できないのだから、二つに分けることに意味はない。
 


2.   我々が直接できることは、時をつかまえることだけだ

2.1.  ここでは「時」を、「運が変わる分岐点」ととらえる
 
2.2.  時をつかめば好転し、つかめなければ悪転する
 ある時点である行動をしたりしなかったりで、その後が良くなったり悪くなったりする。そのような瞬間があるものだ。適切な行動をとれることを「時をつかむ」という。時をつかめるかどうかは運も関係するだろうが、運だけでも決まらない
 
2.3.  必死に生きた結果として、時をつかめる
 時をつかむのは、ある瞬間であって、その時がいつ来るかは、必ずしもわからない。その瞬間に決まるのではない。常日頃から課題意識をもって必死に生きているから、その時が来た時にその時として察知し、適切な行動をとれる。すなわち、時をつかめる。


3.   命が現れる

3.1.  ここでは「命」を「天命と使命」と捉える
 
3.2.  ここでは「天命」を「その人の意思に関わらず、与えられたその人固有の到達点」と捉える
 天命は、考えて決めるものでなく、発見するものだ。発見したと思った天命が、本当の天命とは限らない。「私の天命は…です」と言うと誤ることがある。天命は手招きする。澄んだ目で見れば、見えてくる
 
3.3.  ここでは「使命」を「その人がその人の天命に到達するためになすべきこと」と捉える
 ある重要な行為がなされたとき、その行為は他の誰でもなくその人がするのだ、と納得できることがある。それが使命である可能性は高いと思う。ただ、使命は変わって行く。
 
3.4.  「命」は知ろうとして分かるものでなく、必死に生きている中に現れるものである
 時をつかめば、命が現れ、運が変わる

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