2018年7月27日金曜日

(1312)  幸と不幸の分かれ目



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(K0453) 「ポリファーマシー」(健康被害を招く多剤併用)(2)環境整備 <体の健康>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/07/k04532.html
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===== 引用はじめ

車いす介助に頭下がる思い
      無職 井村 丕 73

 電車に乗るとき、駅員が車いす利用の乗客に対し、スムーズに乗降できるようにスロープ板を渡すサービスをよく見かける。
 駅員さんが誠心誠意、対応されているのを見るたびに当然と思いつつも、頭が下がる思いで眺めていた。車いすのお客さんも申し訳なさそうに、丁寧にお礼を言う。
 ところが先日は違った。猛暑の中、噴き出す汗もぬぐわず、スロープ板を渡す駅員さんがいた。その上を4050代の男性がスマートフォンを手に車いすで乗車した。
 彼は何事もなかったようにスマホを操作している。礼を言うでもなく、頭も下げず、当然といった様子に見えた。「それはないだろう」と思った。
 いざというときに助け合う日本人のやさしさ、人に尽くす心意気を誇りに思う。困ったときはお互いさまだ。助けを受けたときはひと言お礼を言いたいと思った。 (大阪府枚方市)
===== 引用おわり
【談話室】産経新聞(2018/07/26)
 


 私が感じたのは、「醜い」「嫌悪」「不快」である。
 

 世の中には二種類の人がいる。引用したようなこと(助けてもらいながら感謝しないこと)を平気でする人が(A)、それを私のように「醜い」「嫌悪」「不快」と感じる人が(B)。私の近くに(A)の人はいてほしくない。(B)の人と共にいたい。そこで、二つの国に分けよう! A国の住民は(A)、B国の住民は(B)。きっとA国は不幸せの国、B国は幸せの国になるだろう。もちろん私は、幸せの国に住みたい。
 


 そこで、さらに考えた。
 
 障害や貧困で不幸になる人がいる。その一方、障害や貧困にもかかわらず幸せな人もいる。その分かれ目は何か? それは感謝の気持ちをもてるかどうかではないか。他にも要因があるが、これが一番重要そうだ。

 
 障害や貧困は不幸のきっかけにはなるが、それで全てが決まるわけではない。本当に決めるのは、別のところにあるのではないか。感謝する心だ。
 
 「助けてもらうのは権利だ」「助けてもらうのは当たり前だ」という意識の人がいるが、違うのではないか。助けてもらうということは、なかなか無い、「有り難い」ことなのだ。「ありがたい」ことなのだ。自分一人ではできないことを助けてもらえば「ありがとう」だろう。
 
 そうだ、幸せの国に、助ける人も必要だ。いや、いや、自ずと、皆、助ける人でもあるだろう。なぜなら、助けてもらう幸せを知っている人たちだから。この幸せの国では、障害や貧困の人もまた、自分のできる範囲で、助ける人になろうとするに違いない。

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