2018年7月3日火曜日

(1288) 素人による義太夫の会(野澤錦師匠指導)

 
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 素人による義太夫の会「錦糸たまごの会」(*1)の公演(*2)を聴きに行った。素浄瑠璃なので、太夫と三味線のみで,演技者・人形は伴わない。

(*1) ===== 引用はじめ
 私どもは、朝日カルチャーセンター義太夫・三味線教室にて、文楽三味線方・野澤錦糸、女流義太夫三味線方・豊澤雛文、両師匠よりご指導を受けている素人義太夫の会です。平成二十五年に結成し、ほぼ毎年公演を重ねて参りました。時を超え、人々に親しまれてきた義太夫節の魅力に、より多くの方に触れていただき、楽しんでいただけるよう、今後も精進を重ねてまいります。
===== 引用おわり
https://www.c-sqr.net/c/kinshitamagonokai/
添付チラシは、このサイトから収録した。

(*2) H30/7/1、豊中市立伝統芸能館


 最初に断っておくが、私は音楽に関してはまるで素人で、その素人が素人公演会を聴いての感想である。
 
(1) 素人は下手でよいのか
(2) 声は大きくなければならない
(3) 解釈は絶対に必要だろう
(4) 情が無ければ情を語れない
(5) 強さと弱さの共存
(6) 響き合うこと
(7) プロの力
 

【展開】

(1) 素人は下手でよいのか

 結果として下手なのは、素人だと分かった上で聴きに行っているのだから、許容範囲内である。しかし、演者に「素人は下手でよい」と居直られては救われない。精一杯練習し、「上手くいかないのは悔しい!」という気持ちがあったからこそ、聴き手として聴き終わってすっきりなれたのだろう。
 強制されることも頼まれることもなく、お金を払って習いに行き、表現は悪いが、おじいちゃんやおばあちゃんと呼ばれそうな人たち(注:若い人もいる)が、師匠から厳しい指導を受ける。へこたれそうになりながら、それでも習いたい! 上手になりたい! 出演したい! という強い心があり、当日一生懸命頑張っている姿があってこそ成り立つのが、素人公演会だろう。
 

(2) 声は大きくなければならない

 予備知識なく聞き取るのは難しい。床本が配られたので、それを見ながら聞けば言っている言葉は分かる。でも、それでは資料を読むのに注意がとられ、折角のライブを楽しめない。だから、事前に読んであらすじを把握し、始まったら資料から目を離して、聞くのに集中したい。
 その時に声が小さいと、どんな場面になっているか、分からなくなってしまうし、聞き取るのに集中してしまう。そんなことなら、退場し家に帰って資料を読みたくなる。個人的な好みかもしれないが、多少音がずれてもいいから、大きな声でお願いしたい。人に聞こえない声でぶつぶつ独り言をつぶやいている人が舞台にいるのは、つまらない
 

(3) 解釈は絶対に必要だろう

 声は聞こえても、解説を聞いているように感じることもある。方や、物語に引き込まれるように感じることもある。最近は、原稿をコンピューターに読ませる技術も進んで、音の高低もつけられるが、それは、解説を読むような聞こえ方がするだろう。
 おそらく太夫も三味線もその場面を解釈し、解釈した上で音を出した結果、メカニズムはよく分からないが、聞く人を物語に引き込むのではないだろうか。臨場感という表現をすればよいだろうか。臨場感のある演技とない演技とがあった。
 

(4) 情が無ければ情を語れない

 浄瑠璃と言えば情であろう。この情は、喜怒哀楽の感情だけではなく、人と人との間にかわされる微妙な心の揺れ、人生の根幹を揺るがすような苦悩、命を投げ出すような衝動など、諸々の心の動きを含むような気がする。これが伝わってくるかどうか。
 その差は、太夫や三味線の人の心の中に、情がどこまであるかによるのではないか。これはその人の生き方そのものであって、練習やテクニックによって情を表現することはできない。情の無い人も、練習やテクニックの習得で形式的には上達するが、そこまでしか上達できない。一定のレベルより上にはいけない。
 日頃の自らの生き方に情の薄い人には、越えられない壁がありそうだ。今までこれでよいと思っていたものが全否定され、自分の人生が虚空に投げ出され、真っ暗ら闇に放り出されて、そこから壊れてしまった自分を再生しながら脱出してくる。その人が解体してしまうような出来事がないと、情の薄い人の浄瑠璃修業・上達は、壁の前で止まってしまう。そう思った。
 

(5) 強さと弱さの共存

 声が小さくて弱いだけの人がいる一方、声が大きくて強いだけの人もいる。聞きやすいが、続くと疲れてしまう。
 声の強弱のように伝わってくるが、実はその裏に太夫や三味線の人の心の強弱があるのではないか。高ぶる心と穏やかな心。それらが複雑に交差する。その心の強弱の揺れが音として伝わり、聞き手の心を揺らすのではないか。
 心が柔軟で素直かどうかも関係しそうだ。破壊力もある力強さと消え行ってしまいそうな弱さの間で、揺れ動く生の人間としての自分に忠実であるかどうか。演者は演じているのではなく、生きている。
 

(6) 響き合うこと

 声と三味線が並行して聞こえてくるときと、響き合いながら聞こえてくるときがあった。声は声として、三味線は三味線として独自に進んでいくのだが、主役を交代させる。相手を気遣い、気遣わない。声にあわせて三味線を弾くのではなく、三味線にあわせて声を出すのではない(実際には合わせているのだろうが)。でも、絡み合いながら進み、聞く人の心が高ぶっていく。響き合い、リズムが刻まれていく。
 二つの心が、命が響き合う、という現象が起こっているのではないか。
 

(7) プロの力

 最後の尼崎の段の三味線は、師匠(プロ)だった。素人の三味線の後だから、そのすごさが分かりやすい。圧倒的な力がある。でも、それだけではない。
 素人と玄人。玄人の三味線は、「弾いている三味線」ではなく「聴かせる三味線」だった。素人の太夫さんも、頑張っていた。
 最後に大いに盛り上がって終演となった。よかった。



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