2017年10月15日日曜日

(1025)  超高齢社会に思う / 「人口減少社会の構想」(2-1)(放送大学)


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(K0166)  個人Blog 10月上旬リスト(附・『歎異抄』) <サイト紹介>
http://kagayakiken.blogspot.jp/2017/10/k0166-blog.html

1月の「100de名著」『歎異抄』は、20164月期のアンコール放送である。
当時取り上げたので、あらためて書いていない。当時のものを紹介は、上記を参照
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以下は、主として私の意見である(放送大学のテキストに載っていることではない)。
 

超高齢社会は「困ったものだ」と、嘆いてばかりいる人、政治が悪いのだと非難ばかりしている人たちがいるが、彼らこそ「困ったものだ」。
 

何故、超高齢社会になったのか。

(1) 長生きできるようになった
(2) 結婚しない自由、子どもを産まない自由が保障された

喜ばしいことであり、「理想の世界」に近づいた結果、超高齢社会になった。
 

「一定年齢になったら、姥捨て山(尉捨て山?)に捨てる」「一定年齢になったら、強制的に結婚させる」「結婚したら、強制的に2~3人産ませる」という強制力が認められるなら人口構成をコントロールできる。実際にはできないのだから、してよいこととは思えないから、「政治が悪い」と言ったところで、解決にはならない。

 

まったく手を打てない訳ではない

(1) 尊厳死を法的に認める
(2) 結婚したくてもできない人を支援する
(3) 子どもを産みたくても産めない人を支援する


尊厳死したい人の邪魔をしない、経済的に心配なく結婚や出産できるよう支援するといった程度しかできないので、効果は限定的である。基本的に、死ぬ・結婚する・出産するに政治は介入できない。

 

日野原さんは、尊厳死を選ばれたという。私は、幸せな生き方の一つだと思う。
http://healthpress.jp/2017/07/post-3137.html

日本の平均年齢を引き上げているのは、高齢期の延命によるものが多い。日本以外では、死期が近づいて食べられなくなったら、そのまま「枯れていくように」死ぬのが当たり前だという。日本では「枯れても死なせない」体制と技術とが優れており、それが良いという考えもある。「棺桶に片足を突っ込んでからが長い」。私は、それが幸せだと思わないが、日本はそうなっている。

ピンピンコロリで死のうと思っていても、倒れたら親切な人が救急車を呼んでくれ、医者は保険加入の有無も確認しないまま最善を尽くして治療してくれ、そのまま管につながれて生き延び、誰もそれを外さない・外せない。


テキストによれば、「1975年以降は高齢期における(平均寿命の)延びの寄与が70%を占め、高齢者が長生きすることで寿命が伸びることが明確になった」(添付図参照。テキストの表より作成)
 


人口が増えていた時代を振り返ると、その時「経済的に心配なく結婚や出産できた」かというと、そんなことはない。それでも、結婚し、子を産んできた。

できることは、しておくのがよい。しかし、基本的には一人一人の意思の問題、一人一人の生き方の問題である。その結果、超高齢社会になったのだから、まずは、それを受け入れ、その条件下でベストを尽くすのが基本だと思う。
 

出典
大江守之、「第2章 超高齢・多死社会の到来」、宮本みち子・大江守之、「人口減少社会の構想」、放送大学教材(‘17)

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