2016年10月23日日曜日

(670) 尊厳死とは、死の問題か


「尊厳死」という言葉の最後は「死」なのだが、これは死の問題ではなく、生の問題だと私は思う。死ぬ直前をいかによく生きられるかの問題である。と言うなら、「死ぬ直前をよく生きる」とは何かを明確にしなければならなくなる。


 他の人がどうかはわからない。どうあるべきだと他の人に指示する立場にないし、推薦する立場にないし、責任を持つ立場でもない。それは、他の人の問題であって、私の問題ではない。私自身がどうか、だけが大切である。それを他の人に押し付けようなどとは、毛頭考えていない。自発的にヒントとして利用していただけるなら、それは、大いに結構である。


 私の場合は、まさに死なんとする時、生への執着が無ければよいと思う。逆を考えれば、わかりやすい。まさに死なんとする時、生への執着があれば、とても安らかには死ねない。だから、それが無ければ良い。「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」。私は、死ぬ直前には、そのように生きたい。そのように生きたのちに死を迎えたら、それが私にとって「尊厳死」である。


 そのような最期の生き方・尊厳ある死に方に必要であれば、人工呼吸であれ、輸血であれ、輸液であれ、生命維持装置が役に立つなら、その力を借りたい。力を借りてでも生き続けたい。生命維持装置を不本意に止められて死ぬのは、私にとって尊厳死ではない(注:「尊厳死」の定義によれば、不本意に止められることは「ないはず」である)。


 「そのような最期の生き方・尊厳ある死に方に『必要であれば』」という前提を忘れてはならない。「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」という状態が準備できているなら、『に必要であれば』という前提はないので、それ以降に書いてあることは、無効である。すなわち、私は延命措置を受けたくない。


 尊厳ある死であるかどうかは、形(人工呼吸、輸血、輸液など)で決まるものではない。強く言うなら、そういったものは、関係ない。心のありようによって決まる。

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