2016年10月22日土曜日

(669) 元気な今の私は「リビング・ウイル」を書かない


 講習会で、介護のベテランから次のような話を聞いた。

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「もう十分生きた。私はいつ死んでもかまわない。お迎えはいつくるかな?」
と言う人が多い。でもその人がいざ倒れると、
「早く! すぐに救急車を呼んでちょうだい」と、皆さん焦って仰います。
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その話を聞いて、皆(←私も)笑っていたが、冗談ごとではない。


意識があったから、救急車を呼ぶように頼めた。

意識が無くなっていたら、「ご本人の意思により」救急車も呼ばず、
そのまま、自然死、つまり、尊厳死していたかもしれない。
それは、「尊厳死」とは言わない。「生き損なった」と言うべきだろう。

 
元気な時・死を遠くに感じている時には、
「死が間近に迫った時の気持ち」は、分からないだろう。


「元気なうちに、『リビング・ウイル』を書きましょう。そうしないとチューブに繋がれた、悲惨な最期になりますよ」とよく言われるのだが、私は書きたくない(書いていない)。悲惨な最期は厭だが、想像力のないままにサインし、本当は生きたいのに死んでしまうのは、もっと嫌だ。

===== 引用はじめ
リビング・ウイル(LW)とは、治る見込みがなく、死期が近いときの医療についての希望をあらかじめ書面に記しておくものです。協会のLWである「尊厳死の宣言書」は、「不治かつ末期での延命措置の中止」「十分な緩和医療の実施」「回復不能な遷延性意識障害(持続的植物状態)での生命維持装置の取りやめ」の3項目を、署名した本人の意思として表明しています。
===== 引用おわり

 
 一般財団法人 日本尊厳死協会のホームページを慎重に読まねばならない。

「尊厳死とは、不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断わり、自然の経過のまま受け入れる死のことです。本人意思は健全な判断のもとでなされることが大切で、尊厳死は自己決定により受け入れた自然死と同じ意味と考えています。」

 
『不治で末期に至った患者が』という条件が付いている。かなり死期が近づいたときに書くものである。この条件を軽んじてはいけない(実は、宣言書に、この条件が含まれている)。

 

直ぐ死にそうだという実感のない今の私は、リビング・ウイルは書かない。
書かないのは、私である。

あなたが書くかどうかは、あなたが決めてください。

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