2016年5月10日火曜日

(504) 「察する」(2)  「察しが悪い」は、個性である


 「発達障害の人は、察しが悪い」とよく言われる。これも「『察する』とは、『formal発言』のみからではなく、『in-formal発言』も含めて判断することである」と定義すると、容易に説明できる。

 
 彼らは、集中力が高く、『in-formal発言』を無視しがちである。また、論理性が高く、確度の高い『formal発言』を優先して、徹底して推論していく。そうすると、『in-formal発言』が落ちてしまいやすくなり、察しが悪くなる。

 
 この記述は、建設的に発展される。すなわち、「察しが悪い」に相対するのは「察しが良い」ではない。「察しが悪い」に相対するのは、「集中力」「論理性」である。

 もし彼らが「察しが悪い」を改善しようとして「集中力」「論理性」を放棄するなら、彼らの魅力が薄れてしまう。

 
 「察しが悪い」が「悪」でなく、「察しが良い」が「良」ではない。「集中力」「論理性」が高いが「察しが悪い」人もいれば、「察しが良い」けれど「集中力」「論理性」がそれほど高くない人もいる。個性である。

 両方兼ね備えられれば良いが、「だって人間だもの」。そう欲張れない。察しの「良い」・「悪い」は、個性の問題ととらえることもできる。

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