2021年10月28日木曜日

(2496) 『ヘミングウェイ スペシャル』(3-2) / 100分de名著

 【 読書 ・ 100de名著 】牛は何も考えずに突っ込んでくるから、こちらも無意識にまで落とし込まれた体の動きで対応するしかない。いろいろな判断はしているけれど、それを言葉にすると間に合わない。無意識と体を直結させて動く。


 

  原稿を作っていたのですが、掲載し忘れていました。放映は、もう終わっています。

また、紹介の順番が前後しています。

 

第3回  18日放送/ 20日再放送

  タイトル: 交錯する「生」と「死」~「敗れざる者」

 

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50

再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55

 及び        午後 00:00~00:25

 

【テキストの項目】

(1) 『老人と海』に通じる初期の短編

(2)  共通点と相違点

(3)  なぜ闘牛か

(4)  交錯する視線が織りなす物語

(5)  書かないことの効果

(6)  上り坂と下り坂のコントラスト

(7)  後継者は異民族の若者

 

(8)  メディアと観客の視線

(9)  言葉では考えない

(10)      冒頭に示される弟の存在

(11)      闘う姿を見せるということ

(12)      マヌエルとスリトの関係

(13)      多層的な構造を持つ作品

 

【展開】

(1) 『老人と海』に通じる初期の短編

(2)  共通点と相違点

(3)  なぜ闘牛か

(4)  交錯する視線が織りなす物語

(5)  書かないことの効果

(6)  上り坂と下り坂のコントラスト

(7)  後継者は異民族の若者

 以上は、既に書きました。

 

(8)  メディアと観客の視線

 ヘミングウェイは高校卒業後にカンザス州で新聞記者をしていて、パリに移ってからもしばらくはカナダの「トロント・スター」紙の契約記者をしていました(最初にスペインで闘牛を観た年にその職を辞しています)。ですから、ここには新聞記者という仕事への自己言及的な面も読み取れます。ジャーナリストは現実を書くと言いながら、本当は何が起こっているのか全然わかっていない。小説家を志した自分は一生懸命事実をつかもうとして、その勉強のために闘牛を観始めたのだが、ものを見ないで書く人間の文章というのはひどいものだ。うわべだけの常套句を適当に組み合わせただけでは何も伝わらないのだ。そんな批判をしているようにも思えます。

 

(9)  言葉では考えない

 マタドールであるマヌエルが牛にとどめを刺そうと立ち向かう場面。仲間を下がらせて牛と対峙するマヌエルの心の内は次のように描かれます。少し長いですが引用します。

 彼は闘牛の用語で考えていた。ときどき、何かを思いついても、それを表わす用語が浮かばずに、うまく考えがまとまらないこともある。直感と知識は自動的に働くのだが、頭脳はゆっくりと言葉の形をとって働くのだ。雄牛のことなら、彼は何でも知っていた。雄牛についてなら、考える必要もなかった。ただ、なすべきことをすればそれでなかったのだ。目が動きをとらえ、考えるまでもなく体が必要な反応を示す。もし考えたりしていたら、チャンスを逃してしまう。 … “コルト・イ・デレチョ(瞬時に、まっしぐらに)”

 

(10)     冒頭に示される弟の存在

 なぜマヌエルは闘い続けたのか。僕が注目したのはマヌエルの弟の存在です。同じく闘牛士だった彼の弟は、闘牛の試合で命を落としていました。彼を殺したのが、作品の冒頭に描かれる、レタナのオフィスに飾ってある剥製の牛の頭です。マヌエルが剥製を見上げる場面にはこう書かれています。「雄牛の頭部がとりつけられているオーク材の盾には、真鍮のプレートが嵌め込んであった。マヌエルにはそれは読めなかったが、きっと弟を偲ぶ言葉が書かれているのだろう、と思った」。

 マヌエルは弟の死を受け入れきれておらず、喪の仕事が終わっていない。弟が死んだということをおれだけは認めない、という気持ちがあったのかもしれません。

 

(11)      闘う姿を見せるということ

 職業人としての衿持を次世代につなぐというと、まず自分の子どもに継がせるという話になりそうですが、『老人と海』も「敗れざる者」も、血縁関係がない人に継がせる話になっています。そこには、親子関係とは異なる教育の形が描かれているわけですが、その教育を実現するには、ひたすら闘っている姿を見せるしかないとヘミングウェィは考えたのでしょう。勝利をゴールとするのではなく、とにかく闘い抜く。勝って完結するのではなく、闘い抜くという気持ちを伝えていく。「敗れざる者」は、自分のために勝つこととはまた別の、もう一つの価値、すなわち「敗れないこと」の存在を読者に伝えています。

 

(12)      マヌエルとスリトの関係

 最後に取り上げたいのがラストシーンです。手術台のマヌエルと傍らで彼を見守るスリトとの会話を、作品の終わりまで引用します。

 「うまくいつてたんだ」弱々しい声で、マヌエルは言った。「とてもうまくいってたんだ」

 レタナがスリトに目配せして、戸口に向かいかけた。

 「おれはここで付き添ってるから」スリトは言った。

 レタナは肩をすくめた。

 マヌエルは目をひらいて、スリトを見た。

 「うまくいってただろう、なあ?」念を押すように、彼は訊いた。

 「ああ」スリトは答えた。「うまくいってたよ、とても」

 医師の助手から円錐形のものを顔にかぶせられて、マヌエルは深く息を吸い込んだ。スリトは落ち着かない物腰で、じつと見守っていた。

 

(13)      多層的な構造を持つ作品

 マヌエルが自分の負けを認めないのは単なる執念ではないし、長年闘牛をやってきた闘牛のプロが「感覚的にうまくいっていた」というのは必ずしも嘘ではないと思うのです。

 こう考えると、この作品に登場する人たちの多層的な構造が見えてきます。プ口で、かつ一定レベル以上のことがわかる人。プロだけどまだ駆け出しで、そのレベルには達していない人。観客や評論家で、もっともらしいことは言えるし知識も多いけれど、微妙で感覚的なところはわからない人。そして、その大事なところがわかっていない人たちが闘牛を経済的に支えているということ。

 

 

<出典>

都甲幸治(2021/10)、『ヘミングウェイ スペシャル』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

 

<添付写真>

https://team-blocks.com/post-236/



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