2021年5月13日木曜日

(2333)  三島由紀夫『金閣寺』(3-1) / 100分de名著

 

◆ 最新投稿情報

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(K1474)  老いを楽しむ心のゆとり / 「老人力」(3) <仕上期>

http://kagayakiken.blogspot.com/2021/05/k1474-3.html

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前回は、溝口が初めて金閣への呪証を口にし、行動によって世界を変える可能性を予感するところまでを見ました。今回、彼はいよいよある決断をし、行動を始めます。その端緒となったのが、老師との関係悪化でした

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第3回  17日放送/ 19日再放送

  タイトル: 悪はいかに可能か

 

【テキストの項目】

(1)  老師との緊張関係

(2)  戦後社会との関係構築の失敗

(3)  認識ではなく行動による状況打破へ

(4)  金閣を焼かなければならぬ

 

(5)  時間軸の中で自分を捉える

(6)  不滅なものを消滅させる

(7)  悪を可能にする時が来た

(8)  もう誰もあてにしない

 

【展開】

(1)  老師との緊張関係

 前回は、溝口が初めて金閣への呪証を口にしました。今回、彼はいよいよある決断をし、行動を始めます。その端緒となったのが、戦後社会の象徴である老師との関係悪化でした。

 老師に真剣に叱られることを期待する溝口ですが、溝口が何をしかけても、老師からのリアクションがない。ここでの老師の態度にも、戦後社会の手ごたえのなさを見ることができます。

 自分自身の存在が揺さぶられるような激しい体験を、戦後社会に求めようとしている溝口は、それを、戦後社会の擬人化である老師との関係に強く感じています。だからこそ彼は、老師のリアクションを得ようと、つまり戦後社会と関係を結ぼうと、自分の人生に不利になるようなことまでも、やり続けてしまうのです。

 

(2)  戦後社会との関係構築の失敗

 この場面で溝口が試していたのは、「悪は可能か」という自らの問いだったのではないでしょうか。彼は幾度となくこの問いを自問するのですが、よく注意して読むと、そのいずれも自分の為した悪が老師に露見し、それに対して老師がいかなる反応を示すかにかかっている。溝口が悪を犯してまで老師の関心を引こうとする個人的な関係に、戦後に生き残った人間に戦後社会を一変させるようなことは果たして可能か、という問いが重ねられていると解釈できます。

 表面的にどう繕っていようと本心はどうかを確認し合うような関係の構築を、老師にこの先どれほど試みても無益であることが決定的になりました。

 老師、すなわち戦後社会との関係構築の模索は、ここで断たれます。

 

(3)  認識ではなく行動による状況打破へ

 翌日、溝口は寺を出奔します。

 溝口は、認識の変化によって女性との行為を成し遂げようとしたものの、失敗に終わっています。やはり具体的な行為によって、この状況を打破しなければならないのではないか。溝口は、柏木と言葉を交わす中でそう予感じ始めます。柏木と溝口の間で交わされてきた「認識か行動か」という議論が、このあたりで行動でなければならないという結論に傾き始めます。その一つの実践が、旅に出ることでした。

 物理的に寺から移動することで、行動で世界を変えるという溝口の考えが次第に整理されていきます。この旅立ちは、この先彼が起こす様々な具体的な行動の端緒になっていると言えます。

 

(4)  金閣を焼かなければならぬ

 故郷である舞鶴の由良の浜の波打ち際に立った溝口は心の中で叫びます。「それは正しく裏日本の海だった― 私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力との源泉だった」。

 『突然私にうかんで来た想念は、柏木が言うように、残虐な想念だったと云おうか? とまれこの想念は、突如として私の裡に生れ、先程からひらめいていた意味を啓示し、あかあかと私の内部を照らし出した。まだ私はそれを深く考えてもみず、光りに博たれたように、その想念に搏たれているにすぎなかった。しかし今までついぞ思いもしなかったこの考えは、生れると同時に、忽ち力を増し、巨きさを増した。むしろ私がそれに包まれた。その想念とは、こうであつた。』

『金閣を焼かなければならぬ』 溝回はついに犯行を決意します。

 

 以下は、後に書きます。

(5)  時間軸の中で自分を捉える

(6)  不滅なものを消滅させる

(7)  悪を可能にする時が来た

(8)  もう誰もあてにしない

 

<出典>

平野啓一郎(2021/5)、三島由紀夫『金閣寺』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



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