2020年12月1日火曜日

(2170)  栃錦と若乃花 ~ 大相撲がもっとも熱かった頃 / あの頃日本人は輝いていた(18)

 

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(K1311)  個人Blog 11月下旬リスト <サイト紹介>

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栃錦、若乃花とも力士としては体格に恵まれたとはいえない。レスリングはもとより、柔道でさえ体重別となった時代にあって相撲だけは「小よく大を制す」世界だ。その楽しみを与えてくれた代表的存在が栃錦と若乃花

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1.   全勝同士の横綱の千秋楽対決

2.   対照的な生い立ち

2.1.  栃錦

2.2.  若乃花

3.   栃若の残したもの

3.1.  体格には恵まれたとはいえない

3.2.  引退後

 

<展開>

1.   全勝同士の横綱の千秋楽対決

 昭和35(1960)春場所千秋楽、横綱がともに全勝のまま賜杯を争うのは、明治42年に国技館ができて以来初めてのことであった。栃錦と若乃花が優勝を争ったのはこれまで9回、その結果優勝の栄冠に輝き賜杯を手にしたのは若乃花6回、栃錦3回と両者の実力はまったく拮抗していた。栃の速攻か、若が左四つに組み止めての寄りか、世間の目は大阪府立体育館の結びの一番に注がれることになった。

 結果は、栃錦の突っ張り、吊り、内掛けをこらえた若乃花が大相撲の末、白房下に栃錦を寄り切って春場所の最後を全勝優勝で飾った。この勝負が二人の土俵での最後の対決となった。翌場所初日、二日と連敗した栃錦は三日目に引退を表明したからである。二人は34戦して栃錦18(1不戦勝)、若乃花15勝、ともに優勝回数は10回、まさに実力伯仲の最大のライバルであった。

 

2.   対照的な生い立ち

 のちに好敵手となる二人だが、生い立ちは対照的であった。栃錦が子どもの頃から力士になるべくしてなったのに対し、若乃花は二つの出来事がなければまったく別の道を歩んでいたと思われる。

2.1.  栃錦

 栃錦、大塚清が生まれたのは大正14(1925)220日、東京の下町、現在の江戸川区南小岩。小岩は昔から相撲の盛んなところで、明治時代に二人の横綱境川、小錦を生んだのもこの土地である。そうした環境のなかで、清は子供の頃から相撲をとっていた。角界に入ってからは小兵といわれたが、少年時代は他の子とくらべると体も大きく、相撲も強かった。地元の小学校を卒業すると世話する人がいて春日野部屋に入門した。

2.2.  若乃花

 のちの若乃花、花田勝治は栃錦に遅れること2年、昭和3(1928)216日、青森県で生まれた。生家は大きなリンゴ園を経営し“花岩”の屋号を持ち、白い土蔵が四つもある先祖代々の豪農だった。恵まれた家の長男 勝治は、なにごともなければ家業を継いで平凡な人生を送ったであろう。

 しかし一晩で一家の運命が変わった。「室戸台風」が“花岩”のリンゴ園を壊滅させた。残ったのは莫大な借金だった。花田一家は北海道の室蘭へと移る。室蘭での生活は安定し、一家に笑顔が戻ってきた。だが、父にきた赤紙がふたたび勝治の運命を変えた。軍隊にとられた父は、3年後負傷し変わり果てた姿となって帰ってきた。小学校を卒業した勝治は、大人に交じって港湾荷役となって働き足腰の強化とバランス感覚はますます磨かれていった。

 昭和21(1946)夏、大相撲一行が室蘭にやってきた。職場の団体で見に行った勝治は「やれ、やれ一と仲間にけしかけられ飛び入りで参加、序の口、序二段などと対戦、なんと数人を倒した。大ノ海(後の師匠花籠)の熱心な勧誘で、各界入りした。

 

3.   栃若の残したもの

3.1.  体格には恵まれたとはいえない

 栃錦、若乃花とも力士としては体格に恵まれたとはいえない。

 栃錦が大関に昇進した時でも98キロと100キロに満たなかった。したがって平幕から三役にかけては軽量のハンディを克服すべく土俵を目いっぱい使う激しい動きでカバーした。

 若乃花も横綱時代でさえ107キロしかなく、戦後最軽量の横綱として記憶されるほどだが、「呼び戻し」などの大技も下半身の強さ、膝のばねを使ってのものだった。

 レスリングはもとより、柔道でさえ体重別となった時代にあって相撲だけは「小よく大を制す」世界だ。その楽しみを与えてくれた代表的存在が栃錦と若乃花であった。

 

3.2.  引退後

 栃錦は引退後年寄春日野として横綱栃ノ海、大関栃光など多数の力士を育てた。また日本相撲協会理事長となってからは、若乃花改め年寄二子山を事業部長に抜櫂し、春日野理事長、二子山コンビは幹部の「栃若時代」と呼ばれたこともあった。

 春日野理事長の最大の功績は新国技館の建設を無借金で実現したことであった。また、椅子席観客の待遇改善、茶屋制度の改革、派閥にとらわれない人材登用で相撲界を改革、714年に及ぶ長期政権となった。

 両国国技館が完成すると、春日野は相談役に退き、二子山に理事長の席を譲った。二子山は実弟貴ノ花を大関に育て、また理事長として土俵の美を追求し、立ち合いの正常化に努め、「待った」に厳しく、行事の「手をついて」の掛け声の励行などに取り組んだ。

 栃錦が60歳を迎えた折、還暦土俵入りの太刀持ちを務めたのは若乃花であった。土俵の上での最大のライバルは、引退後はかけがえのないパートナーとなった。

 

栃錦清隆(19251990)

 第四十四代横綱。本名・大塚清。

 東京生まれ。多彩な技と粘り強さで「マムシ」と恐れられた。引退後、年寄春日野を襲名し、日本相撲協会理事長として両国国技館建設など手腕を発揮した。優勝10回。

 

若乃花幹士(19282010)

 第四十五代横綱。本名・花田勝治。青森生まれ。強靭な下半身を武器に「土俵の鬼」と言われた。引退後、二子山部屋を立ち上げ、弟の大関貴ノ花はじめ二横綱二大関を育てた。優勝10回。

 

<出典>

池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)

 

写真は、

栃錦vs若乃花横綱全勝決戦

https://www.youtube.com/watch?v=FLmnsa1ZvO8

※動画あり



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