2020年10月21日水曜日

(2129)  吉田の生い立ち / 吉田茂(2) / あの頃日本人は輝いていた(16-2)



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東京帝国大学(現東京大学)法科大学政治科に編人学した。外交官試験に合格したのは明治39(1904)のことであった。国運を賭した日露戦争に勝利し、日本が国際政治のなかに巻き込まれていく時期であった

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 吉田は明治11(1878)、高知県の自由民権運動の闘士竹内綱の五男として生まれた。父が投獄された後、父の親友吉田健三の養子となった。茂は三歳であった。養父は、イギリスの商社ジャーディン・マセソン勤務をへて船問屋として成功した実業家であった。茂は義母の士子によって厳しく育てられた。「土佐のいごっそう(気骨ある頑固者)」である実父の血を受け継ぎ、また気位の高い養父母の影響を受け、かつ健三の残した莫大な財産50万円(現在の価格なら約百億円)を得たことはその後の人生に大きく影響する。

 

 神奈川の私立学校など四つの学校を転々とした後、落ち着いたのが、華族、皇族の子弟が通う学習院であった。学習院の校風は気位の高い茂に合い、中等科、高等科さらに大学科へと進学した。大学科は日本の将来には優秀な外交官が必要だと考えた学習院院長近衛篤麿(文麿の父)により設立された育成機関であった。茂はここで外交史、国際法、行政法、語学など外交官に必要な教育を受けた。

 

 外交官としての一歩を踏み出した吉田は、表舞台の欧米ではなく、奉天を振り出しに中国勤務が多かった。しかし、外相、宮相、内相などを歴任した牧野伸顕の長女雪子と結婚したことが、宮中や重臣との人脈を築く一助となる。

 

 一貫していたのは、対英米協調であった。日独伊三国同盟には徹底して反対した。外相候補に何度もあげられながら、実現しなかったのは、親英米主義が軍部に嫌われたからであった。日米開戦後、早期の戦争終結を目指し和平工作に奔走し、それが発覚して憲兵隊に逮捕、収監されたが、この過去も戦後は“勲章”となった。

 

 

<出典>

池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)

 

添付は、

https://www.kyudan.com/column/keibatu.htm



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