2020年10月18日日曜日

(2126)  組閣の三条件 / 吉田茂(1) / あの頃日本人は輝いていた(16-1)

 

 

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「日本のことわざに“まな板の上の鯉というのがある。われわれは、対連合国との関係では男らしく堂々と対処し、一同力を合わせて再び祖国日本の運命を切り開いていこうではないか」。外務省職員を奮起させた

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 ポッダム宣言を受諾し降伏してからまだ1カ月あまりしか経っていない昭和20(1945)916日のことであった。外相に就任し、6年振りに外務省に戻ってきた吉田茂は、初登庁すると大臣室に課長以上の幹部を集めて開口一番こう訓示した。

 「諸君、わが国は有史以来はじめて戦争に負けたのである。残念ながら敗戦国となってしまった以上、大和民族は大和民族らしく、ジタバタするのはやめようではないか。日本のことわざに“まな板の上の鯉”というのがある。われわれは、対連合国との関係では男らしく堂々と対処し、一同力を合わせて再び祖国日本の運命を切り開いていこうではないか」

 この“まな板の上の鯉”演説は、意気消沈しがちの外務省職員を奮起させるものであった。

 

 有史以来の敗戦を喫した日本は悲惨な状況にあった。アメリカの爆撃によって119の都市が廃墟と化し、全国で戦災のため半焼、半壊を含めると実に220万戸の住宅と家屋が失われた。900万人以上のひとびとが着の身着のまま焼け出され、さまようことになった。失われたのは住宅だけではない。都市とその周辺の工場、道路、橋、港湾施設、船舶もすべて破壊されつくされていた。

 台湾、満州、朝鮮半島、東南アジア、南方諸島などかつての植民地や勢力圏から日本はすべて締め出され、しかもこれら海外から約600万人の引揚者が、すべての財産を捨てて身ひとつで敗戦の祖国に帰ってくる。原料、食糧など海外からの供給もなくなった。

 

 昭和21(1846)4月、戦後初の総選挙が実施されたが、首相になるはずの鳩山一郎は組閣を前にしてGHQから公職追放処分となり、断念せざるを得なかった。

 窮地に立った鳩山は吉田に政界入りと自由党総裁就任を持ちかける。政党入りに気が進まず、内政に関して知識も経験もない吉田は引き受けるつもりはなかったが、いつまでも首相不在では混乱が続くと考えた吉田は、外相官邸を訪れた鳩山に3条件を出して了承させたのであった。

1.   金はないし、金作りもしない

2.   閣僚の選定にロ出し無用

3.   嫌になったらいつでも投げ出す

 

 吉田に大命が下ったのは516日、だが組閣は容易ではなかった。19日には宮城前広場に25万人が集まり「食糧よこせ」のデモがおこなわれ、「吉田反動内閣反対、人民戦線結成」と訴えるなか、第一次吉田内閣が発足したのは522日のことであった。この内閣の諟題は「国民を飢えさせない=食糧の確保」と新憲法の制定はじめ戦後日本再建のため数々の法律を決めることであった。

 

<出典>

池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)

 

写真は、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%B1%B3%E7%8D%B2%E5%BE%97%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%A4%A7%E4%BC%9A



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