2020年5月21日木曜日

(1976)  松下幸之助と電化製品 - ものをつくり、人をつくる / あの頃日本人は輝いていた(4)


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創業発祥の地に、「道」と題する幸之助の言葉を掲げた「創業の地」記念碑が立っている
広い時もある 狭い時もある
のぼりもあれば くだりもある
まさに松下幸之助の生涯は、この言葉のように波乱万丈の九十四年であった
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1.   太閤記、猿飛佐助で漢字を覚えた
2.   首切りはしない
3.   産業人の使命は貧困の克服である

【展開】

1.   太閤記、猿飛佐助で漢字を覚えた
 配線工をやりながら夜間の関西商工学校に通ったが、一年あまりで中退した。小学校に四年までしかいかず丁稚奉公に出た幸之助は満足にノートが取れなかったのだ。漢字の学習はもっぱら講談本からだった。太閤記、猿飛佐助など難しい漢字にはルビが振ってあり、そこから知識を得ていった。講談本から得たのは漢字だけではなかった。英雄は人をどのように使ったのか、論功行賞はどうしたかなど書いてあったから、それを活かして後に経営に当てはめる勉強にもなった。

2.   首切りはしない
 昭和初期の不況。多くの企業が解雇や賃金カットで対応する中、松下は「首切りはしない。生産は減らし工場の工員の就業時間は半日にする。逆に営業関係の社員は休日も出勤して在庫品の販売に全力を尽くせ」との方針で臨んだ。感動した社員の努力の結果、さばくのに少なくとも六カ月はかかると思われた在庫品をなんと二か月ですべて整理し、危機を乗り切ったのであった。社員一丸となっての成果であった。

3.   産業人の使命は貧困の克服である
 幸之助は利益を追求するだけではなかった。昭和七年を「命知元年」と定め第一回創業記念式典を開催した。アメリカの自動車王ヘンリー・フォードに倣った「水道哲学」、「二百五十年計画」、「適性利益・現金正価」を社員に訓示した。「産業人の使命は貧困の克服である。社会全体を貧困から救って豊かにすることだ。商売や生産の目的は、その活動によって社会を富ますところにある…」。全社員に対して訴え、社員はその使命感に感動し、会社の結束を促すことになった。

写真は、
https://www.asahi.com/articles/ASKDF6DH9KDFPLFA00G.html

<出典>
池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)


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