2019年8月15日木曜日

(1696)  ロジェ・カイヨワ『戦争論』(3-1) / 100分de名著

 
◆ 最新投稿情報
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(K0837)  長寿化を憂鬱でなく恩恵にするために / アンドリュース・スコット氏(2) <少子高齢化>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/08/k0837-2.html
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第3回  19日放送/ 21日再放送

  タイトル: 内的体験としての戦争
 


【テキストの項目】

(1)  「聖なるもの」とは何か
(2)   神なき神秘体験 ―― バタイユの「内的体験」
(3)   ユンガーの「内的体験」とハイデガー

(4)   フロイトの「戦争」
(5)   神話と「聖なるもの」
(6)  「祭り」と「遊び」、そして戦争
 

【展開】

(1)  「聖なるもの」とは何か

 「聖なるものは、まず、魅惑と恐怖の源であった。戦争は、それが人びとをひきつけ、人びとに恐怖を抱かせる時にのみ、聖なるものとして受け取られる」(第二部・序)
 元々「分けられた」「別に取り置かれた」というフランス語の形容詞をそのまま名詞化した言葉が「聖なるもの」です。それを前にすると、合理的・客観的な判断が成り立たない。だから直接的・非合理な崇拝や畏敬の対象にもなります。
 カイヨワが「戦争は、聖なるものの基本的性格を、高度に備えたものである」というとき、それはキリスト教の「聖人」や「聖家族」というときのような「神聖さ」とは違って、もっとプリミティヴで混沌とした、恐れを誘うようなもの、それゆえにまた魅惑するようなものです。
 

(2)   神なき神秘体験 ―― バタイユの「内的体験」

 自分という意識の枠組みが崩れると、わたしは誰でもなくなり、何か無制約な全体の中に溶けてしまう。そのとき、いわば「個」の殻が破れて外に出るということですが、それは「外」ではない。無制約なところにもはや「外」はなく、むしろ絶対的な「内」なのです。そのことが「体験」と表現されるのは、主体の意識が崩れてしまって、ただ感覚的な「体験」としてしか生きられないからです。
 こういった意識の体験は、西洋では伝統的にキリスト教の「神秘体験」を通して引き継がれてきました。 … ところが、現代では誰もが神を信じているわけではありません。 … こうした自分の「神なき神秘体験」のことを、ジョルジュ・バタイユは「内的体験」と呼びました。
 

(3)   ユンガーの「内的体験」とハイデガー

 ユンガーは、感情に溺れることなく、冷徹に現実を見つめながら、同時にそれを劇的な高揚に転化するのです。それをユンガーは「内的体験」とみなしました。その「体験」は、戦争の凄惨さの強度を、逆に文明の精華として謳歌するという、異形のものでした。
 そのようなユンガー作品は、マルティン・ハイデガーの哲学とも親和性を持ちました。「不安」を人間の基本的な情緒であり、それこそが人間の「本来的あり方」-の「覚醒」の入り口である、とする存在の論理で若者たちを震撼させ、一世を風靡したハイデガーが登場するのも、第一次世界大戦後のこの時期です。
 

 以下は、後に書きます。
(4)   フロイトの「戦争」
(5)   神話と「聖なるもの」
(6)  「祭り」と「遊び」、そして戦争
 


<出典>
西谷修(2019/8)、ロジェ・カイヨワ『戦争論』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

 

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