2018年6月17日日曜日

(1271) 「こんな世界を愛せるか?」「ペストの正体」 / アルベール・カミュ『ペスト』(3-2) / 100分de名著

 
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(K0412) 「世界一孤独な日本のオジサン」(1)(2)(3)① <社会的健康>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/06/k0412123.html
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2018/06 第3回  18日放送/ 20日再放送
  タイトル:それぞれの闘い
 
Eテレ。
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 



【今回の目次】

(1)  いまの自分を引き受ける――ランベールの決意
(2)  無垢な子供の死

(3)  こんな世界を愛せるか?――パヌルー神父の変化
(4)  タルーの告白――偏在する「ペスト」の正体
 
 

【展開】 今回の投稿は、(3)(4)
 
(3)  こんな世界を愛せるか?――パヌルー神父の変化
 
A)   こんな世界を愛せるか?
 
 オトン少年の死にショックを受け疲労の極限にあったリウー医師は、一緒に少年の死に立ち会ったパヌルー神父に怒りをぶつけた。「ああ! あの子だけはともかく罪のない者だった」
 パヌルー:「私たちはたぶん、自分の理解できないことを愛さねばならないのです」(神の意思は人間の尺度を超えており、人間には分かり得ないのだからどこかに救いが用意されているかもしれないではないか)
 リウー:「子供たちが苦しめられるように創造されたこの世界を愛するなんて、私は死んでも拒否します」(子供の名において、リウーは神の創造する世界に反対した)
 


B)   パヌルー神父の変化
 
 オトン少年を看取った日から、パヌルーにも変化が起こった。「司祭は医師の診察を受けることができるのか?」という題の論文を準備している、と笑いながら語った。

 パヌルーの二回目の説教:「神への愛とは困難な愛です。それは自分自身を全面的に放棄し、自分の人格を無視できることを前提にしています。しかし、ただこの愛だけが、子供たちの苦しみと死を消し去ることができるのです」(みずからの信念を貫き、「最後の最後まで行く」という極端な決意が、パヌルー神父の悲壮ともいえる変化だった)

 パヌルーはそれから2、3日後に急に体調を崩し、みずから明言したとおり医師の診断を拒んで、見る見る症状を悪化させ、死んでいった。それが天罰だったのか、来世での救済を保障する恩寵だったのか、わからない。
 
 

(4)  タルーの告白――偏在する「ペスト」の正体

 11月、「ペストの進行グラフ曲線」はその頂点で長い横ばい状態となった。
 
 「僕はこの町とこの伝染病を知るずっと前から、とっくにペストで苦しんでいたんだ」とタルーが告白を始めた。この告白は、作品中の「ペスト」の意味を隠喩的に読み解く試みにとって、ランベールのスペイン内戦をめぐる挿話よりも、さらに重要な挿話だと思われる。
 
 タルーが17歳になったとき、検事である父親は自分の仕事場である法廷に、自分の論告を聞きに来るようにと息子を呼びよせた。

===== 引用はじめ
 タルー少年は、父親によって死刑を求刑された被告人に強烈な印象を受けます。 … たとえそれが罪人であったとしても、その生きている人間を社会の名において殺してしまう死刑宣告が、目の前で父親に下されたことは、タルーに大きな衝撃をあたえました。
===== 引用おわり
 
===== 引用はじめ
 哲学者の内田樹さんは「ためらいの倫理学」(『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』所収、角川文庫)というカミュを論じた鋭い文章のなかで、人間が、国家や社会という立場から異論の余地のない正義を引き合いに出して死刑に賛成したり、全体的な真理や未来の幸福のために革命のための殺人や戦争やテロをおこなったりすることに「ためらい」を感じる倫理的感性こそ、カミュの精神の本質的な特徴だと見ています。そして、自分が善であることを疑わず、自分の外側に悪の存在を想定して、その悪と戦うことが自分の存在を正当化すると考えるような思考のパターンが「ペスト」なのだ、ときわめて示唆的な読解を提示しています。
===== 引用おわり
 

 カミュは、この作品にタルーとう人物を登場させることで、「絶対に自分は殺される者たちの側に立つ」という、その思想の極点を語っている。
 
 

<出典>
中条省平(2018/6)、アルベール・カミュ『ペスト』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)
添付写真:1952年のカミュ。カミュとその家族。右端が母カトリーヌ

 

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