2017年8月20日日曜日

(971) 人が人を「殺す本能」「殺さない本能」 / 大岡昇平『野火』(3-2)


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(K0112) 40代でもチャーミングな人の秘密 <個人の発達>
http://kagayakiken.blogspot.jp/2017/08/k011240.html
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100分で名著』 8月21日() 22:25 22:50 Eテレ 放映

 
 附属池田小事件(2001年)、秋葉原通り魔事件(2008年)、相模原障害者施設殺傷事件(2016年)などを考える時、「人を殺さない」という本能が「外れてしまった」ような印象を私は受けている。





 「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになる」

 日本で殺人のニュースがよく流れているという理由により日本で殺人が多いような気がするが、それは逆に、日本で殺人が起こるのが稀だからニュースになっているだけのことである。殺人がたくさん起こって一つ一つをニュースに取り上げると、ニュース番組が長くなり、新聞が分厚くなって、それでも他の記事は書けなくなってしまう。「幸運に」と言ってよいのかわからないが、日本は今のところ大規模なテロに見舞われていない。
 
 その結果、多くの日本人が思い浮かべる殺人は「三人称」の殺人であって、「二人称」「一人称」の殺人ではない。「三人称」は「見ず知らずの人」「親しくない人」、「二人称」は「家族や友人など親しい人・身近な人」、「一人称」は「自分自身」である。

 その結果、思い浮かべる殺人には、リアリティがない。頭の中でくみ上げただけのものになる。だからと言って、殺人リスクのある所に、わざわざ行くことはない。

 
 殺人が日常に行われているのは戦場である。戦場にいかなくても、映画や小説や解説本によって疑似体験はできる。例えば、今回取り上げている「野火」である。現実ではないが、少しは現実に近づける。
 

 「殺さずに済ませたい本能」をキーワードとして、私はテキストを読んでいった。
 

【今投稿の目次】

(1)  殺されそうなら殺してもよい

(2) 「殺さずに済ませたい本能」

(3) 「殺さずに済ませたい本能」の抑制1

(4) 「殺さずに済ませたい本能」の抑制2

(5) 「殺さずに済ませたい本能」の出所1

(6) 「殺さずに済ませたい本能」の出所2

(7) 「汝、殺すなかれ」という神の声

(8)  神の声を聞く

 

【各論】

(1)  殺されそうなら殺してもよい

 「戦場においては、相手が私を殺す可能性があるのだから、自分も相手を殺す権利がある」という前提がないと、前線には行けないだろう。

=====引用はじめ
 「自分の生命が相手の手にある以上、その相手を殺す権利がある」と思っていた。従って戦場では望まずとも私を殺し得る無辜の(罪のない)人に対し、用捨なく私の暴力を用いるつもりであった。
=====引用おわり

この文の後に、続く。

=====引用はじめ
 この決定的な瞬間に、突然私が眼の前に現れた相手を射つまいとは夢にも思っていなかった。
=====引用おわり

自分の眼前に現れたひとりの若いアメリカ兵士を撃たなかったときの様子が、上のように『俘虜記』に綴られている。
 

(2) 「殺さずに済ませたい本能」

=====引用はじめ
 この戦争の原則は、実は、本能に反しているという説があります。つまり、どんな兵士でも、前線で突如敵と相対した場合には、なるべく相手を撃ち殺さずにすむように考える。躊躇してしまうのです。
=====引用おわり
(注)「この戦争の原則」=「殺されそうなら殺してもよい」

 
(3) 「殺さずに済ませたい本能」の抑制1

=====引用はじめ
 1960年代、アメリカがベトナム戦争で、ジャングルでゲリラとの戦いを展開しているときにも兵士たちは人を殺すのを躊躇しました。そこでアメリカ軍は、躊躇を外す「洗脳」を施した兵士をベトナム戦線に投入します。スタンリー・キューブリック監督の映画「フルメタル・ジャケット」で、新兵にメンタルトレーニングを課すシーンを覚えている方も多いでしょう。
=====引用おわり
(映画のポスターを添付)
 

(4) 「殺さずに済ませたい本能」の抑制2

 もうひとつ興味深いことが『俘虜記』には記されている。

=====引用はじめ
 戦争とは集団をもってする暴力行為であり、各人の行為は集団の意識によって制約乃至鼓舞される。もしこの時僚友が一人でも隣にいたら、私は私自身の生命の如何に拘わらず、猶予なく射っていたろう。
=====引用おわり
 

(5) 「殺さずに済ませたい本能」の出所1

=====引用はじめ
 私はここに一種の動物的な反応しか見出すことはできない。「他人を殺したくない」という我々の嫌悪は、恐らく「自分が殺されたくない」という願望の倒錯にほかなららない。これは例えば、自分が他人を殺すと想像して感じる嫌悪と、他人が他人を殺すと想像して感じる嫌悪が全く等しいのを見ても明らかである。この際自分が手を下すという因子は必ずしも決定的ではない。
=====引用おわり
 

(6) 「殺さずに済ませたい本能」の出所2

 私は、違う考えを持っている。テキストをから離れて、私の意見を述べる。

 生物には、個体を守ろうとする本能と、種を守ろうとする本能の二種類がある。「殺されそうなら殺そうとする」のは前者の本能で、「殺さずに済ませたい」のは後者の本能である。
 同種の狼が激しく争っても、負けたほうが仰向けになって首をさらすと(=降参の意思表示)、勝った狼は攻撃をやめ、殺すには至らないらしい。
 時に、二種類の本能が葛藤することもある。
 

(7) 「汝、殺すなかれ」という神の声

「殺さずに済ませたい本能」は、人を殺すことを躊躇させる。

=====引用はじめ
 「十戒」にもあるような人類にとっての原始的な掟である「汝、殺すなかれ」を、大岡は究極の殺す、殺されるという状況の中で考え尽くしたのかもしれません。つまり、完全に孤立した人間になったそのとき、はじめて人は「汝、殺すなかれ」という、神からの直接的指令である「声」を実行しなければならなくなるのではないかということです。
=====引用おわり

=====引用はじめ
 ひとりになった瞬間、その狂気に対する批判が芽生えます。あるいは、神が自分を見ている――と感じてしまうのではないか。超越的なものと出会うには、ひとりでなければなりません。上官からでもなく、軍隊でもなく、国家でもなく、もっと上の、まさに「神」からの指令を受けやすい心理状態になるのだと考えれば、よく理解できます。
=====引用おわり
(注)「その狂気」=集団同町圧力が、倫理や良心の発揮を許さない状態
 

(8)  神の声を聞く

=====引用はじめ
 人肉食の誘惑と戦い、花の言葉を聞いて、自分が生きるためにまだ生きている者の命を奪ってもいいのか、という神の存在に近接する意識にまで到達しました。大げさにたとえれば、たったひとりで荒野に立つ男といえば、イエス・キリストのことであり、モーセのことでもあります。彼らも四十日間の断食を行い、その体験の末に、モーセは神から十戒という律法を授かり、キリストは悪魔の誘惑を克服するのです。
=====引用おわり
 

出典:
島田雅彦、大岡昇平『野火』~汝、殺すなかれ、「100DEで名著」、NHKテキスト(2017/8)

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