2017年5月30日火曜日

(889) 鎌倉時代の仏教(二)親鸞・一遍 / 仏教と儒教(5)


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 法然によって創始された浄土教は、さらにその易行の救いのあり方を徹底させていく。

 親鸞によっては信のみによる救いが唱えられ、念仏はむしろ報謝の念仏と位置づけられることになった。

 一遍によってはただ名号のみによる救いが唱えられ、名号を唱えるなかで、唱える者と阿弥陀仏とが一体になる(機法一体)ということまで説かれた。

 親鸞と一遍とは、さまざまな点で対照的であるが、自力については徹底的に否定し、いわば絶対他力による救いを語るという点では一致している。

 本書では、その日本独自に発展した浄土教の論理を理解することを目標とし、さらにそこに見られる日本的霊性の特質について考えてみたい。

 

<構成>

 親鸞の思想
1-1 『教行信証』の思想
1-2 親鸞なおける三心
1-3 弥勒便同・如来等同

 一遍の思想
2-1 信不信を問わない救い
2-2 一遍における三心
2-3 機法一体の思想

 

<各論>

 親鸞の思想

 『正像末和讃』に「弥陀の本願信ずべし、本願信ずる人はみな、摂取不捨の利益にて、無上覚をばさとるなり」とある。 … 本願ヘの信によって、その本願の力により、どんな凡夫も無上の悟りを得るのだという。ここに、親鸞の浄土教の核心が示されている。

 
1-1 『教行信証』の思想

 親鸞の主著『教行信証』の「行巻」に「…真実信の業識、これ即ち内因とす。光明・名の父母、これ即ち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す」 … 諸仏が称え我々に聞かせる阿弥陀仏の名号(および光明)が縁、真実信が因となって、報土往生が得証される。

 
1-2 親鸞における三心

 浄土教では、『観無量寿経』の「至誠心・深心・廻向発願心」、『無量寿経』第十八願の「至心・信楽・欲生」という三つの心を具えることが要求されるが、本当に備えることができるか。
 親鸞によれば、如来の純粋な大悲心は、金剛の真心なのであり、それをいただいていた自己であったと知らされて、その心が信心と呼ばれるものともなる。それが真実の信心なのであり、この如来より賜りたる信心によってのみ、報土に往生できる。

 
1-3 弥勒便同・如来等同

 信心の定まった者は、等覚の位にある弥陀と同じ位にある(弥勒便同)。「浄土の真実信心のひとは、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こころはすでに如来とひとしければ、如来とひとしとまふすこともあるべしとしらせたまへ」(如来等同)

 

 一遍の思想

 日本の浄土教の中には、浄土宗、浄土真宗のほかにもう一つ、一遍の時宗がある。藤沢の清浄光寺(遊行寺)が、その総本山である。

 
2-1 信不信を問わない救い

 一遍の法門は、信によらず、意識の分別によらず、ただひとえに名号によって救われる道であり、その救いは一念の念仏のうちに機法一体となって、阿弥陀仏と成就するという独特なものとなっている。

 
2-2 一遍における三心

 救われるためには、三心を具えることが条件である。一遍は、三心を備えるということは、実は名号に帰することなのだとする。「しかれば、三心といふは身命を捨て、念仏申すより外には別の子細なし」ということになる。

 
2-3 機法一体の思想

 名号を称えるただなかにおいて、「生死なき本分」を自覚・実現しえ、機法一体になる。パウロは「我もはや生くるにあらず、キリスト我がうちにありて生くるなり」といったというが、宗教の原点は、まったく同じのようである。

 

引用
竹村牧男、「第五章 鎌倉時代の仏教(二)親鸞・一遍」
竹村牧男・高島元洋編、仏教と儒教~日本人の心を形成してきたもの~、放送大学教材(2013)

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