2017年5月19日金曜日

(877) 期待に応える


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(K21) 「体の健康度」「体の自立度」「生活の自立度」「生活の広義の自立度」 / 自立度など <自立喪失からの脱却>
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私のFacebook友達の橋本 展行さんが、熱い投稿をした(5/16)

===== 引用 はじめ

【期待に応える】

期待に応える
そんな人間でありたいと思います

でも、
誰かの期待に応えたい、そう思うと
誰かに期待されたい、その思いが先立ちます

===== 引用 おわり

 
読んでいて素晴らしいなと思うと同時に、
自分は、そうはなれないなと思った。

 
寂しいことだが、
私には「誰かに期待されたい」という思いはない。だから、
「期待に応える そんな人間でありたい」と思うこともない。

 
むしろ、「期待される」ことから逃れようとする。
何故なのか、考えてみた。

第一に、誰かが私に期待すると、私に侵入しようとしているかのように感じるのだろう。私が何をするかは、私に所属する。私の領域内にある私の行為に、他者が関与している。

第二に、誰かが私に期待すると、それに応えねばならないという義務感やら責任感みたいなものを感じてしまう。自分のしたいことを差し置いて他人の期待にこたえようとしないが、そうすると義務感や責任感が取り残されてしまう。

「期待される」のに応えないのは、心苦しい。
「応えない」を避けるため、「期待される場」から遠ざかり、私は守りに入る。

 

橋本さんと私は、何が違うのだろうか。

===== 引用 はじめ

僕は本当は何がしたいんだろう
どんなふうに生きていきたいんだろう
どんなことにワクワクし
何に喜びを感じるんだろう

それを“夢”というなら
僕の夢はなんだろう
そして、それを誰と共有したいんだろう

 
夢が誰かのためにと結びついたとき
それをというのかもしれません

夢、志、

そのために命を使うなら
それを使命というのかもしれません

===== 引用 おわり

 
「夢」があり、
それが“誰かのために”と結びついたとき「志」になり、
それらのために命を使うと「使命」になる。

一貫性があり、素晴らしい。
思うだけでなく、実践する人だということも私は知っている。

 
  
しかし、これを、私に当てはめようとすると、無理が出る。
「夢が誰かのためにと結び」つくところで、頓挫してしまうのだろう。

では、私の「夢」、「志」、「使命」は何だろうか。

 
いま一度考えてみようという機会をいただいた。

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