2016年12月31日土曜日

(739) 市民後見人。責任性 / ボランティアに純粋性が必要か? (4) このシリーズ終わり


 「ボランティアに純粋性が必要か?」という問において、市民後見人がどのように位置づけられるかを考えてみる。

 
===== 引用 はじめ

ボランティア精神だけで市民後見人の仕事をまっとうできるのか?

弁護士や司法書士、社会福祉士などの専門職後見人は、報酬をもらって成年後見の業務にあたっています。東京家裁の例を挙げると、通常の事務の場合、毎月の基本報酬額は2万円。

ただし、管理財産が高額になると管理業務も複雑になるため、1,000万~5,000万円の財産は月額3万~4万円、5,000万円以上の財産は月額5万~6万円と報酬額が高くなります。

 一方、市民後見人は社会貢献やボランティア活動としての位置づけです。多少の報酬を支払う自治体もありますが、「無報酬」としているところが大半です。利用者のなかには生活保護を受ける必要性が生じたり、借金の返済、家賃の滞納など、予想以上に大変な仕事が待っている可能性もあります。

 つまり、「手弁当で後見活動を行なってもよい」といったボランティア精神がないと務まらないのです。

===== 引用 おわり

 
因みに、神戸市の市民後見人は無報酬である。

また、「ボランティア精神だけで市民後見人の仕事をまっとうできるのか?」という問に対しては、「神戸市成年後見支援センターが後見監督人としてサポートしている」というのが一つの答である。ただし、これだけでは不十分である(後述)。

注:「借金の返済、家賃の滞納など、予想以上に大変な仕事が待っている可能性もあります」というケースは、神戸市民後見人では対象にならない(市民後見人には対応が難しいので専門職に委ねる)。一方、「利用者のなかには生活保護を受ける必要性が生じたり」については、生活保護受給者が多い(専門職の成年後見人に報酬を出すのが難しいので)。

 
私は、市民後見人は「純粋性」をもっとも強く要求されるボランティアの一つだと思う。一度受任すると、原則としてその方が亡くなるまで続くからである。勝手に辞めることはできない。

 

ボランティアの定義は色々あるが、「自主性・自発性」といった項目は必ず入っている。「ボランティア活動は、個人の自由な意志に基づいて行う自主的・自発的な活動です。他の人や組織に強制されたり、義務として押し付けられたりして行うものではありません」(http://www.neri-shakyo.com/index.php/service/volunteer/ 「練馬区社会福祉協議会 :: ボランティアとは」)
 

イベント開催で協力者を募集すると、無断であるいは気楽に、当日来ない人が多い。「自主性・自発性」であり「無償性・無給性」であっても、いったん約束したのに守らないなら、それはボランティアとは言えない。単なる我儘である。

 
成年後見人は長期にわたる重たい責任を負うので、「純粋性」が求められる。

  

ボランティア的仕事の協力をお願いして、「できれば行くね」と言われるのは厄介である(と言いながら私も時々言っている)。当てにすると来ないと困ってしまい、当てにしないのは失礼だと思うし、断るのも難しい。そういう人に限って、来て「私のすることがなかった、つまらなかった」と言う。もう、誘いたくないと思ってしまう。

 
ボランティアには、純粋性は必須ではないが、責任性は必須である。

 

一般的には、どうだろうか。 例えば、

「練馬区社会福祉協議会 :: ボランティアとは」(前出)では、

(1)   自主性・自発性

(2)   社会性・連帯性

(3)   無償性・無給性

(4)   先駆性・開拓性

を挙げている

 
 
私の言う「純粋性」「責任性」は出て来ない。

  責任性が無ければ、ボランティアではない

  純粋性が無くても、ボランティアである

  純粋性が有れば、責任性を期待できる

  純粋性が無いと、責任性は危うい(当人の責任感の問題)

(注)純粋性:自分の都合や好みではなく、相手に対する奉仕の心にある

 
このシリーズ、終わり。


良い年をお迎えください。

2016年12月30日金曜日

(738) ボランティアの「純粋性」 / ボランティアに純粋性が必要か? (3)


前置きとして、ボランティアの「純粋性」について考えてみたいと思ったきっかけについて述べる。

27日午後530分集合で、神戸市青少年会館の年末大掃除に行った。
そこで二つのことを思った。

 
忙しい年末の夕方にもかかわらず、多くの団体から100人はゆうに超す人が集まっていた。掃除をする場所ごとに複数の団体が割り当てられた。その説明の中で「皆さん、譲り合ってください」という言葉が興味深かった。

「お菓子がこれだけある。譲りあって食べてください」ならわかる。そうか、掃除を譲り合わない人がいるということなのだ。ここでは、掃除は避けたい苦役ではなく、やりたいことなのだ。

 

もう一つ気にかかったのが、一緒に掃除をしている人たちに、たいしたことではないが声かけをすると、気のせいかもしれないが「透明な」声が返ってきたのである。ああ。こういう人たちとボランティア活動したいなと素直に感じた。

日頃、ボランティア活動をしていて声はよく聞いているのだが、一味違う「純粋」な声に感じた。違いは何なのか。

今回の掃除には、「生きがい」「楽しい」「有償」「自己顕示欲」「自己肯定欲求」「承認欲求」「仲間」「共にする喜び」「活動の場」と呼べるほどのものは、何もない(注:ジュースをワンパックいただいた)。義務として来ている人もいるが、多くは「純粋」に来ているのだろう。つまり「純粋性のあるボランティアの人」の密度の高い集団だったと思う。

 

「純粋性のないボランティアの人」は、「不純な部分」が無くなると去ってしまう可能性のある人たちだ(例えば、生きがいを感じなくなったり、仲間内で不愉快なことがおこったりすると、ボランティアを継続する意味がなくなる)。

「純粋性のあるボランティアの人」は、そもそも「不純な部分」は最初からないのだから、状況が変わっても、きっと踏みとどまってくれる人たちだ。だから、「こういう人たちとボランティア活動したいなと素直に感じた」のだろう。

 
「純粋性のないボランティアは危うい」

2016年12月29日木曜日

(737) 定義と考察 / ボランティアに純粋性が必要か? (2)


「ボランティアに純粋性が必要か?」を考えてみようとしている。まず、定義。

 
ここで言うボランティアは、前回(736)で述べた「独り善がりボランティア」を含まない。何らかの他者への役立ちがある。弊害があっても役立ちより小さい。金銭目的ではない。

 
「ボランティアが生きがいだ」「楽しいからボランティアをしている」という人がいて、それを批判的に見る人もいる。ボランティアは相手の為にするものであって、「生きがい」とか「楽しい」とか、自分の為にするなら、ボランティアではないという。また、ボランティアとは無償でするものであって、お金をもらったらボランティアではないという人もいる。

また、ボランティアをしている人に、自己顕示欲とか自己肯定欲求とか承認欲求(誉めてほしい)を強く感じることがある。ボランティアをしない人を一段低く評価している(自己肯定欲求の裏返し)のを感じる事もある。

仲間が欲しくて、誰かと一緒に何かをしたくて、あるいは、自分の活動の場が欲しくて、そのためにボランティアに参加する人も多い。


無償でひたすら相手の為にすることを「純粋性」とここでは呼び、自分本位なところを「不純な部分」と呼ぶことにする。

 

「ボランティアをしている人」を見ていて

「純粋性」 << 「不純な部分」

(「不純な部分」が「純粋性」よりはるかに大きい)と感じることがある。

 

尊いことをしていることには間違いないのだが、

「ボランティア」と名付けるのには、戸惑いを感じる。

 

さて、「ボランティアに純粋性が必要か?」という問いかけに対する「私の答」を書く。多くの答がありえて、どれが正しいとは簡単には言えない。私の意見を言うのであって、他に押し付けようとは思っていないので「私の答」である。

(1)   ボランティアに純粋性は必要ない。純粋かどうかなど考えず、良いことはどんどんすればよい。「これはボランティアだ」と言ってよい。お金については、報酬が主目的でなければ貰ってもボランティアと言ってよい(報酬を目的とするなら、ボランティアとしてではなく、ビジネスとして社会に貢献すればよい)

(2)   純粋性のないボランティアは危うい

 
このうち(2)については、次回に更に述べる。

2016年12月28日水曜日

(736) 「独り善がりボランティア」 / ボランティアに純粋性が必要か? (1)


「独り善がりボランティア」をときどき見受ける。本人はボランティアをしていると主張するが、実はあまり役に立っておらず、むしろ迷惑の方が多いケースである。

自分がしていることがボランティアと呼ぶに値するかどうかは、本人が決めるのではなく、それを受けた者が決めるものである。常に謙虚であり、「独り善がりボランティア」にならないように留意しなければならない。

 
意図としては良いことをしようとしたとしても、実際に何かをすると、多い・少ないの差はあるが、良い結果とともに悪い結果も伴ってしまうことがある。

 
 
ナホトカ号重油流出事故(解説を後述)において、良い評価と悪い評価とが聞こえてきた。

重油流出事故が起きて、海岸に重油が押し寄せて、行政が学者を呼んでどうしようかと議論しようとしているうちに、全国からボランティアが集まり、たちにまちのうえに事態は改善された。行政ではできないことを、素早く実行してしまう力をボランティアは秘めている。

一方、一部の人であろうが、「ボランティアに来てあげたのだから当然だろう」と、車を路上駐車させ、現場に案内させ、やり方を説明させ、中には長靴を要求したり、洗い場を要求したり、最後には、重油で汚損した大量のビニール合羽を放置して帰ってしまうなど、地域住民の生活を脅かしたケースもあったと聞く。それでも「来てくれるな」とは言えず、倒れてしまった地元住民もいるらしい。

 

小悪といえども減らしたいが完全に零にするのは難しいこともある。それに拘って大善を思いとどまったり、批判的に言うのは好ましくない。同時に、ボランティアをする時には、謙虚な気持ちを忘れてはならない。

謙虚さを失って被災地に行くと、善意からスタートしたとしても、「独り善がりボランティア」に陥ってしまいかねない。ボランティアとして行った人にとっても、それを受ける人にとっても、不幸を呼び寄せることになる。

 

  ナホトカ号重油流出事故 解説

===== 引用 はじめ

ナホトカ号重油流出事故は、199712日未明、島根県隠岐島沖の日本海で発生した、重油流出事故である。


ナホトカは暖房用のC重油を約19,000キロリットル積み、1229日上海を出港、ペトロパブロフスクへ航行中だった。その後船体は島根県近海で浸水により沈没し、分離した船首部分は漂流を始めた。

最初の重油漂着は17日午前3時半、福井県坂井郡三国町(当時。現・坂井市三国町)安島の越前加賀海岸国定公園内の海岸であり、続いて島根県から石川県にかけての広い範囲にも重油が漂着した。なお、流出したのは積載されていた重油の一部、約6,240キロリットルであった。


その後、海上では海上保安庁や海上自衛隊が、重油が漂着した海岸では地元住民や全国各地から集まったボランティア、自衛隊などが回収作業に当った。石油連盟は「ナホトカ号流出油防除支援対策本部」を設置し、油回収機材の貸し出しを実施した。

… 油回収に唯一有効な手段は、人力によって柄杓を用いて集める方法だけとなった(ように騒がれた)のである。ボランティアによる人海戦術が本事故の対策で非常な貢献をした…

地元住民に加え、全国各地からの個人・企業・各種団体によるボランティアが参加して、のべ30万人近くと伝わる民間有志による回収作業も行われた。厳冬期の1月に事故が起こったことで、海からの冷たい風が吹き荒れる海岸での回収作業は過酷を極め、回収作業に当たっていた地元住民やボランティアのうち5名が過労などで亡くなるという二次被害が発生した。

 
また、ボランティア活動は次のような課題も残している。

まず、盛んに報じられた三国沖には全国からの有志が殺到したが、それ以外の海岸にも順次重油は漂着しており、最終的には能登半島から鳥取県までの広範囲に及んだ。三国沖以外の石川県沿岸自治体では回収に協力したのは地元住民、および彼らによって組織された町内会やPTAといった互助組織である。

また、ボランティアが使用した重油で汚損した大量のビニール合羽が大量に廃棄物となる結果を招いたり、出迎える側の住民が入れ替わり立ち代りするボランティア達への回収法、改修場所教授などに忙殺されて疲労困憊し、一斉休息日を設けなければならなくなるという問題もあった。

===== 引用 おわり

Wikipedia 『ナホトカ号重油流出事故』より抜粋

 

2016年12月27日火曜日

(735) 「糸魚川の12/22大規模火災」に思う


200人以上が焼け出された22日発生の新潟県糸魚川市の大火、
被災された方々にお見舞い申し上げます。


===== 引用はじめ

 新潟県糸魚川市の大火は、木造建造物が密集した地域で起こる火災の恐ろしさをまざまざと見せつけた。

 22日午前に中心市街地で発生した火事は、強風にあおられて約150棟に延焼した。被害は約4万平方メートルに及び、鎮火までに30時間を要した。

===== 引用 おわり

 


不幸中の幸いは、消防団員9人、住民2人がけがをしたものの死者を出さなかったことだ。

  被災者の多くが取材に対し、自宅内や事務所内にあった防災行政無線の受信機が発する警告音で火災発生を察知した証言した


  日中の火災だったので、状況判断や避難行動がしやすかったこともある

 
  住民の証言から浮かぶのは「隣近所に声を掛け合って逃げた」という地域のつながりだ。深夜の火事でも教訓になる

 

 一方、これだけ大火になってしまった要因としては、テレビ解説によれば、

(1)   木造建造物の密集地帯である。しかも、入り組んだ細い路地。

(2)   強風であった(特に、飛び火で拡大した。火の粉だけではなく、燃えた木の塊が飛ぶ)

(3)   消防車が足りなかった(応援要請の課題も含む)

この中で、(1)(3)については今後何らかの対策ができそうな気がするが、私は口出す立場にはいない。

 


 私が注目したのは「東西方向への延焼防止に重点を置いた」という解説である。

 地図で見ると、南風にあおられて火元から北へ延焼が進み、海で止まっている。もしも海でなく宅地が続いていたら、さらに延焼が続いていたのではないか。一方、東西方向へは、ある一定幅で収まった。

 想像であるが、消火に当たられた方は、北への延焼を食い止めたかったが、限りある消化体制を考慮すると、東西への延焼防止に回らざるを得なかったのではないか。多分、風下での消火活動は、危険が大きいということもあるだろう。燃えていない家を守るために、燃えている家を消しにいけない状態でもあったのだろう。

 
 目の前に困っている人、助けを求めている人がいても、大局としては他に回らざるをえない。これが現実であり、現実を受け容れざるをえない。


 全体を見なければならない。

    北への延焼を食い止められなかったが、東西への延焼はなんとかこのラインで食い止めることはできた

    燃えている家を消せなかったが、隣の家が燃えることを防ぐことはできた

写真は、産経新聞より。




 

2016年12月26日月曜日

(734) 『三四郎』/ 夏目漱石没後“ちょうど”100年スペシャル



20161221日(水) BS朝日 放映済み

夏目漱石没後“ちょうど”100年スペシャル
人間・漱石と名作~漱石ゆかりの地・熊本の復興を願って~


  2時間スペシャルで放映開始時刻が午後9時だった。

録画の開始時刻を変更していなかったので、視聴できたのは、後半のみ。

 

『三四郎』の各々の登場人物には、モデルがある。

  三四郎は、漱石の弟子である小宮豊隆がモデルである

  三四郎の憧れの女性美禰子は、漱石の弟子である森田草平と心中未遂事件を起こした、婦人運動家平塚雷鳥がモデルである

  三四郎の同郷の先輩野々宮のモデルは、弟子である、物理学者の寺田寅彦である

 
夏目漱石は、寺田虎彦から物理的な知見を聞き、一度聞いただけで正確に小説に織り込んだという。

 

『三四郎』あらすじ

===== 引用 はじめ

福岡県京都郡真崎村(架空の村、豊津町近郊の農村)で生まれ育ち、熊本の高等学校(第五高等学校)を卒業して上京。道中、三四郎は京都で同乗した女性と名古屋で一泊する時、間違って同室になるのだが、床が敷かれるなり三四郎は自分なりに気を使ったつもりだが、お陰で別れ際に「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」といわれる。

東京帝国大学に入学するため上京したが、東京は自分の常識とは全く違った世界であった。さまざまな人と出会い、三四郎は自分は三つの世界に囲まれていることを整理する。一つ目は、母のいる故郷九州の田舎。二つ目は、野々宮や広田先生のいる学問の世界。三つ目は、華美溢れる世界であった(第4章)。

三四郎は、都会的な美禰子(みねこ)のいる三つ目の世界に心を惹かれ、美禰子に恋慕するが、自分の気持ちを相手にうまく伝えることができない。結局、美禰子は、兄の友人と結婚してしまう。

===== 引用 おわり

Wikipedia 『三四郎』

 
 
夏目漱石は、落語好きで、『吾輩は猫である』という題名自体が、
落語のセオリー、「緊張」+「弛緩」に則っているらしい。

『吾輩は』=「緊張」、『猫である』=「弛緩」

 

  追記

  「夏目漱石 三四郎 - 青空文庫」で原文を読めるよう

  作中で三四郎と美禰子が出会った東京大学の心字池(育徳園心字池)は、本作品にちなんで「三四郎池」と呼ばれるようになった(写真:Wikipedia)。
 
 

今後の予定

  1231日(土)午後5008:54「あらすじ名作劇場 セレクション」

  次回の放送は、111日(水)夜1000~ BS朝日
「春はあけぼの…平安エッセイ 清少納言『枕草子』


三四郎 (新潮文庫) 文庫: