2016年9月21日水曜日

(638) 「死の受容」(2) 「死の受容は出来るかどうかわからない」から始めよう


「死の受容」について今の私がいかに深く理解しても、まさに自分が死にそうになったとき、どうなるかは分かったものではない。今は悟ったような顔をしていても、いざとなると、嘆き、悶え苦しむかもしれない。

 ならば、「死の受容」なんて、出来るかかどうか分からない、というところから始めてみてはどうか

 
(1)   「交わりのある死」
 医師や看護婦さんあるいは家族や友人に看とられての死、つまり「交わりのある死」を持ちたいものである。

(2)   自分の置かれた状況を受け容れ、最期まで生にこだわって生きる
生きて生きて生き抜いた先に、「死の受容」があるのではないか

(3)   成長の中にある死を自認する
人間の魂や心理的な成長はかならず一つの心理的な死を死んだときであり、そこに新しい生が得られるのである。

(4)   久遠なるものの中に抱かれる
久遠なるものとつながり、一体化した時、死はなくなる。死を受容するというより、死は何物も揺るがさなくなる

 
全て、死に方ではなく、生き方についてである。いかにして生きるか、これを真剣に追求していった結果として、「死の受容」を達成できるのではないだろうか。「死を考える」と「生を考える」は、表裏一体である。

 
<各論>

 (1)   「交わりのある死」
===== 引用  P.39
 できれば、最期まで独りぼっちにならないで、医師や看護婦さんあるいは家族や友人に看とられての死、つまり「交わりのある死」を持ちたいものである。なぜなら、死はどんな人も孤独にするし、死のいちばん嫌いなものは交わりであるからである。この人間のコミュニケーションこそ、死の受容の根底であると思っている。
=====

(2)   自分の置かれた状況を受け容れ、最期まで生にこだわって生きる
 「十分生きられなかった」という思いでは、死を受容しにくい。もっと生きて「十分生きられなかった」自分の人生を全うしたくなる。上手くいくかどうかは別にして、自分は「やるだけのことはやった」と思えると、気持ちが楽になる。生きて生きて生き抜いた先に、「死の受容」があるのではないか

(3)   生の中にある死を自認する
===== 引用 はじめ  P.41
 じつは人間が成長するところには必ず死があり、人間の魂や心理的な成長はかならず一つの心理的な死を死んだときであり、そこに新しい生が得られるのである。人間のライフサイクル、なかでもイニシエーション(通過儀礼)として見た人間の成長には、その節々に死が存在し、その死を死ぬことによって次の生へと導入されてくるのである。そこで、死もまたイニシエーションであるということができるだろう。
===== 引用 おわり

(4)   久遠なるものの中に抱かれる
自然、子孫は、有限な自分の生が終わっても、存在し続ける。久遠なるものとつながり、一体化した時、死はなくなる。肉体的な死は、あまり意味をなさず、死を受容するというより、死は何物も揺るがさなくなる

 
 
===== 引用 はじめ  P.41
死を受容することによって、その人が今までの生活のなかで経験したことのないような人生を体験することになる。その人は看とられる人との関係のなかで凝縮された高度の生活に入って、その方の人生を終えるに至る。
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引用
樋口和彦、『死は生の中で常に成長している』、死を受容する 心理学、『死生学がわかる』、AERA Mook(Number 60,2000)、朝日新聞社、P.38 P.41

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