2016年9月4日日曜日

(620) 「告発本」なのか / 石牟礼道子『苦海浄土』(0) (9月5日(月) 22:25 – 2250 Eテレ 放映)


 私の中で起こった思いを中心に描く。

8月号の予告で、石牟礼道子『苦海浄土』と知り、気分が重たかった。しかし、テキストを読んで、「私の思い描いた告発本」ではないと、分かった。

 

1. 背景にある事実の確認

 ===== 引用 はじめ

水俣病(みなまたびょう)(英語:Minamata disease)は、日本の化学工業会社、チッソの熊本県水俣市にある水俣工場が水俣湾に流した廃液による水銀汚染の食物連鎖で起きた公害病である。そして、環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の病気である。1956年(昭和31年)に発生が確認された。

日本の高度経済成長期に発生した四大公害病の一つであり、「公害の原点」ともいわれる。また工業災害における犠牲者の多さでも知られる。なお、水俣湾は、環境庁の調査によって安全が確認され、現在では漁が行われている。

===== 引用 おわり
Wikipedia 『水俣病』

 


2. 私の思い描いた告発本

「私の思い描いた告発本」のイメージは、以下のようなものであった

(1)   被害者の悲惨さの言挙げ(ことさら言葉に出して言いたてる)

(2)   怒り・憎しみ・恨みの高揚(精神や気分などを高めること)

(3)   著者利益のための扇動(気持ちをあおり、ある行動を起こすようにしむける)

 

この種の「告発本」は、被害者の魂も、読者の魂も貶める。
『苦海浄土』は、その対極にある。

 


3. 『苦海浄土』とは、何者なのか

(1)   この作品(苦海浄土)はいわゆる「ノンフィクション」ではない

(2)   自分(石牟礼道子)はこの作品の真の作者ではない

(3)   現代詩の枠組みを超えた「詩」のつもりで書いた

(4)   『苦海浄土』は単なる告発の文学ではない

 

『苦海浄土』は、… 第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれます。しかし、著者の石牟礼道子は受賞を辞退しました。理由は、… 大きく二つあるのではないか…」(P.4)として、テキストの著者(若松英輔)は(1)(2)を挙げた。

 
(1)   この作品(苦海浄土)はいわゆる「ノンフィクション」ではない

===== 引用 はじめ  P.5

… 私たちは、そもそも文学を、ノンフィクション、フィクションで二分しなくてはならないのでしょうか。

 作家の遠藤周作が新約聖書にふれ、この書物は、文学としても、最も優れた作品であるといい、そこには真実だけではなくその奥に秘められた真実も描かれていることを忘れてはならないと語っていましたが、同じことは『苦海浄土』にも言えると思います。

===== 引用 おわり

 

(2)   自分(石牟礼道子)はこの作品の真の作者ではない

===== 引用 はじめ  P.5

… 『苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、という強い自覚が彼女にはある。表現を変えながら彼女は様々なところで、水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけだと語っています。

===== 引用 おわり

 

テキストの著者(若松英輔)がこの作品の成り立ちについて話した時に石牟礼道子が語ったのが(3)である。

 
(3)   現代詩の枠組みを超えた「詩」のつもりで書いた

===== 引用 はじめ  P.5

 … ここでいう「詩」とは、単に文学の一形式としての「詩」であるだけでなく、文学の根源的な精神を表象する「詩情」の結晶である、と考えることができるのではないでしょうか。また、詩には決まった形式は存在しないということも、ここでもう一度思い出したいと思います。

===== 引用 おわり


 
テキストの著者(若松英輔)によれば、

(4)   『苦海浄土』は単なる告発の文学ではない

===== 引用 はじめ  P.5

『苦海浄土』は、単なる告発の文学ではありません。むしろ、光源の文学です。水俣病の原因を作った企業あるいは地方行政の欠落を照らし出すだけでなく、言葉を奪われた人々の心の奥にあるものを、白日のもとに導き出すのです。

===== 引用 おわり

 


4. 底に流れる感情「かなし」

===== 引用 はじめ  P.12

… 昔の日本人は、悲し、哀しとだけでなく「愛し」、「美し」と書いても「かなし」と読んだといわれますが、この一文(*)はそうした悲しみの深みに読む者を導いてくれます。熾烈なまでに悲しいのですが、どこまでも「美しい」何かを読む者の心に残してくける言葉であるように私には感じられます。

(*) 「花の文を - 寄る辺なき魂の祈り」『中央公論』20131月号

===== 引用 おわり

 


5.「私の思い描いた告発本」と『苦海浄土』

(1)          被害者の悲惨さの言挙げ(ことさら言葉に出して言いたてる)

 被害者は悲惨さに圧倒され、やがて受け入れ、乗り越え、再生していく。そのプロセスの先に希望がある。悲惨さそのものに価値はなく、プロセスが尊いのである。悲惨さばかり強調するのは、被害者にとっても誰にとっても救いとならない。なお「悲惨さを忘れて良い、忘れた方が良い」と言っているのではない

 
(2)          怒り・憎しみ・恨みの高揚(精神や気分などを高めること)

 怒り・憎しみ・恨みは、価値あるものを生み出さない。深い悲しみの中からも希望を生み出すのは、「かなし」である。

===== 引用 はじめ  P.15

 チッソに象徴される近代産業が犯した、許されざる罪を不問にすることは絶対にしてはならない。実態は、どこまでも明らかにされなければならない。償いも、真の限界まで行われなくてはならない。しかし、罪を糾弾するだけで終わってもならない。それはむしろ、患者たちが苦しみと悲しみの果てに見出したものに耳を閉ざすことになる。背負いきれないような苦難を背負ってもなお、世界は美しいと語る無名の人々の言葉 - そして、それによって照らし出される、私たちが日頃見逃している世界の輝きも - 見過ごしてはならないのだと思います。

===== 引用 おわり

 
(3)          著者利益のための扇動(気持ちをあおり、ある行動を起こすようにしむける)

 敵を倒すという、著者利益を図る「告発本」が実に多い。被害者に寄り添うことなく、被害者を道具として使っている。被害者の魂も、読者の魂も貶める。

 


「ともあれ、『苦海浄土』という作品が、既存のどのジャンルにも当てはまらない、まったく新しい文学の姿と可能性を伴って現れた、二十世紀日本文学を代表する作品であり続けることは、すでに動かせない事実となっています」(P.5

 
「本当の芸術は、最後には人の心を慰め、励まし、そして、真実の美によって包み込みます。『苦海浄土』はそうした典型的な、しかし、現代日本ではじつに稀有な作品なのです」(P.8

 

引用

若松英輔(2016/9)、石牟礼道子『苦海浄土』、100de名著、NHKテキスト

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