2016年5月30日月曜日

(524) 比較を止める


何故、苦しんでまで比較しようとするのか

(1)   比較の圧力がかかる。偏差値や業績査定、等々(これらは比較を含んでいる)
(2)   他人にどうみられているかが気になる(他人が比較しているか否かは不明)
(3)   他人との比較で、自分を確かめようとする

前回ここまで書いた。

 
思いついたことを書き並べており、他にもあるかも知れない。
実際には、色々な事情で「比較」しているだろう。

これだけで解決できないケースも、多々あると思う。
機会があれば、考察を追加していきたい。

とりあえず、列挙したものについて、一つずつ、考察を進める。
 


(1)   比較の圧力がかかる。偏差値や業績査定、等々(これらは比較を含んでいる)

 他から発するものであり、比較そのものはコントロールできない。

  成績をあげて志望校に合格したい。偏差値が気になるのは当然である。
給料をあげてもらいたい、出世したい。業績査定が気になるのは当然である。
偏差値も業績査定も気にならないと言うなら、むしろ大丈夫かなと心配になる。
 
 ただ、偏差値や業績査定をあげようとしたりすると、苦しくなる。
しっかり勉強すれば、結果として偏差値は上がってくることを期待できる。
しっかり仕事をすれば、結果として業績査定が上がってくることを期待できる。

 勉強したり仕事をしたりすることは、自分でコントロールできる。
偏差値や業績査定は、自分でコントロールできない部分がある。

 コントロールできないところで動くと、大きなストレスを受けることは知られている。
(コントロールできる)勉強や仕事の専念できれば、良い成果も期待できる。
悶々と悩んでいるより、気分もすっきりする。

 

(2)   他人にどうみられているかが気になる(他人が比較しているか否かは不明)

社会生活を営む限り、「他人にどうみられているかが気になる」は、健全な反応である。これが欠如すると、社会生活がおぼつかなくなる。しかし、度が過ぎると、困ったことが起こってしまう。

 「気になる」というのは、自動反応であり、コントロールできない。

 観察によれば、
他人を比較する人は、自分が比較されることに敏感である。
他人を比較しない人は、自分が比較されることに鈍感である。

 自分が他人を比較するかどうかは、コントロールできる。ここを変えると、結果として、(コントロール困難と思われる)「他人にどうみられているかが気になる」を緩和することが可能であろう。

 

(3)   他人との比較で、自分を確かめようとする

生き方の根源にかかわる、大切なところである。

自分自身の存在に揺らぎのない人は、「他人との比較で、自分を確かめる」ことはしない。いわゆる「あるがままの私」を感じている人である。

 「いまの私のままではいけない」と感じている人は、他人と比較し、自分を確かめようとする。

 
 では、「あるがままの私」「揺るがない自分」になるために、どうすれば良いのか。
 これに簡単に回答できるなら、多くの問題は簡単に解決できる。

 
 回答になっていないと思うが、自分でしていることを一つだけ書く。
自分でできることは、すべてやりつくすことである。「もうこれ以上無理」という境地になったときに残っているのは「揺るがない自分」だと思う。何故なら、これ以上揺るぎようがないからである。

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