2016年5月19日木曜日

(513) 内館牧子「必要のない人」


 短編小説集である。「可哀想な人」「夏を抱く人」「ささやかな人」「別れる人」「必要のない人」「幸せな人」「光飲む人」の7編からなっている

 

主人公は、

「可哀想な人」:38歳の処女
「夏を抱く人」:公園でカツサンドの46歳男
「ささやかな人」:夫が交通事故で死んだのは、彼女が25歳の時である
「別れる人」:母が急死した。一人娘の私は30歳になる。天涯孤独になってしまった
「必要のない人」:55歳で子会社に出向を命じられ、その後依願退職した男
「幸せな人」:イタリアの下着メーカーの日本支所長。40歳独身女性
「光飲む人」:夫に女がいることを、私はとうに気付いている

 
 念のために書いておくが、「処女」を「可哀想な人」であると作者が言っているのではなく、「可哀想な人」としてとりあげたのが「処女」であった。「夫が交通事故で死んだのは、彼女が25歳の時である」という人が「ささやかな人」であると言っているのではない。

 

 興味深かったこと、二つ。


 作者がどのようにして、これらの小説を書いたか、想像してみた。多分、知っている誰かを見て、その人を「可哀想な人」「夏を抱く人」… と名付けた。次に「可哀想な人」「夏を抱く人」… と名付けるに相応しい人物像を描き、相応しい出来事を想像した。二人の人から一人の人格ができたこともあるし、人物像を描いているうちにモデルとはかけ離れた人格になることもあるだろう。

 私の目の前の一人ひとりに「…な人」とラベルを付けるとするなら、どんなラベルをつけるだろうか。そのラベルに相応しい人格像を、私はどのように描くだろうか。はたして、10人に10個のラベルを想定できるだろうか。もし出来ないとしたら、私はその人をステレオタイプで見ているのではないだろうか。

 こういうことを想像していると楽しい。

 
 もう一つ気付いた。全て「男女の機微」の上にストーリーが描かれている。私は多分「男女の機微」の上で生かされているのであろうが、そのようなことを意識することがなく、そのような見方で人や出来事を見ることは、稀である。

 「男女の機微」では、論理的思考は成立しない。もしそれが成立するなら、それを「男女の機微」とは言わない。だから、「男女の機微」を描くということは、論理的思考を排除した世界を描くことである。

その視点で見ていくと、世の中は、全く違うものに見えるかも知れない。

 
 それにしても、「光飲む人」で夫が愛人と旅行に行ったと確信を持ったときの、主人公の描き方には圧倒された。

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