2016年5月18日水曜日

(511) 「察する」(5)  理解としての「察する」、コミュニケーションとしての「察する」


 「察する」=「他人の気持ちをおしはかって同情する」、「〔気付く〕sense ((that))」、「〔思いやる〕sympathize with, feel for;」について、まず述べる。

 人の気持ちを言葉で伝えることは、本来不可能だろう。「私は幸せです」と言われたところで、本心かどう分からないし、どのように幸せかもわからない。Aさんの幸せとBさんの幸せは、違う。Cさんの今日の幸せと明日の幸せが同じとは限らない。
 
 他人の気持ちは、まさに、察するしかない。


 また、「察する」は、主体的に見ると理解の課題だが、人間関係に目を移すとコミュニケーションの課題になる。

人は、察せないわりに、察してくれることを期待する。

 
 特に女性から「察してください」プレッシャーを受けることが、しばしばある。はっきり言ってくれない。なんだか遠回しの言い方ばかりで、何が言いたいのかよくわからない。でも、分かることを期待される。

 
 「相手を傷つけまい」「無礼なことは言いたくない」「不愉快な雰囲気にはしたくない」という、つつましさから出ているのだろうが、困ってしまう。「遠慮なく語り合える間柄になっていない」と自省もするが、埒が明かない。

 「自分で責任を取りたくない」という気持ちがすかして見えることもある。うまくいかなかった時「私は何も言っていない。あなたが勝手にそう思ったのでしょ」と責任を擦り付けてくる気配を感じることもある。そんな時、人間不信に陥ってしまう。

 

 どうでもいいことなら「勝手に察してください」でもよいが、大切なことは、是非、はっきり伝えてほしい。難しいかも知れないが、その努力をしてほしい。

 察することも必要であるが、不確かな「察する」への依存は、できるだけ避けたい。
感情面も含めた良質のコミュニケーションを成立させるためには、先ず「察する」に依存しない努力、次に「察する」「察してもらう」ための双方の努力が不可欠である。

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