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2019年10月8日火曜日

(1750)  西田幾多郎『善の研究』(2-1) / 100分de名著

 
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(K0891)  介護は人が好きでないとできない仕事だ <介護>
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大いなるものの前に出るとき、人は、必然的に「小さき者」になる。己れが「小さき者」であることを知り、大いなるものに畏怖と敬虔な心情をもって向き合う。そのとき、「永遠の真生命」への扉が開き始める
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第2回  14日放送/ 16日再放送

  タイトル: 「善」とは何か
 


【テキストの項目】

(1)   哲学の「目的」
(2)  「自己」の世界にふれる
(3)  「大なる自己」と「小なる自己」
 
(4)   我を手放す
(5)  「無心」の世界
(6)  「善」の定義
(7)   仏性を生きる
(8)   利他の哲学
(9)   体現される「善」


【展開】

(1)   哲学の「目的」

 ここでいう「目的」は、その哲学者がいちばん大切にしているものです。それに向かっていくときの態度を確かめることは、その哲学の本質を見極めようとすることになります。
 「学問するということは私の究極の目的でもなければ本来の関心事でもない。私にとってはいのちにかけての問題がある」。高弟の一人で久松真一の言葉であるが、西田の哲学への態度そのものです。
 「学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一等の事なり、lifeなき学問は無用なり。急いで書物よむべからず」。Lifeは、「いのち」「生命」のことです。
 「余は禅を学の為になすは誤りなり。余が心の為め生命の為になすべし。見性までは宗教や哲学の事を考へず」。「見性」とは禅における究極的経験のことです。それは自己の底、世界の底にふれる経験だといってもよいかもしれません。
 

(2)  「自己」の世界にふれる

 「宗教」は「大いなるはたらき」で、「大いなる」ものを西田は「神」と書いています。「神」は内界と外界の双方の根本の「はたらきだ」というのです。「神」は人間を超えながら、同時に私たちの心に内在します。遠く彼方に神を感じつつ、我が身の内に神を探せというのです。
 「テニスンが静かに自分の名を唱えて居ると、自己の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の実在となる。しかも意識は決して朦朧たるのではなく最も明晰確実である」。
 テニスンは、自分の名前を唱え続けることで、小さな「自我」の壁を突き破って、大きな「自己」の世界にふれた。浄土教の人たちはそれを「南無阿弥陀仏」という言葉によって行っている。
 

(3)  「大なる自己」と「小なる自己」

 大いなるものの前に出るとき、人は、必然的に「小さき者」になります。しかし、「小さき者」であることの自覚こそが、内なる偉大な「自己」の発見に直結する。己れが「小さき者」であることを知り、大いなるものに畏怖と敬虔な心情をもって向き合う。そのとき、「永遠の真生命」への扉が開き始める。「小さき者」としての「自己」そのものが、「永遠の真生命」へと続く道となる。それが西田哲学の原点であり、基準点なのです。
 西田にとって「哲学」とは、「小なる自己」を通じて「大なる自己」へと至る道であり、「大なる自己」の世界の叡知を「小なる自己」の世界へと運ぶはたらきだともいえます。
 「大なる自己」とは、自我から自由になった「自己」、無私なる自己だと考えてよいと思います。
 

 以下は、後に書きます。

(4)   我を手放す
(5)  「無心」の世界
(6)  「善」の定義
(7)   仏性を生きる
(8)   利他の哲学
(9)   体現される「善」


<出典>
若松英輔(2019/10)、西田幾多郎『善の研究』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

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