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2018年8月12日日曜日

(1326)  仲間を傷つけ苛むことを妨げる抑制

 
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(K0467)  9月21日を「認知症の日」に <脳の健康><システムの構築>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/08/k0467.html
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 「仲間を傷つけ苛むことを妨げる抑制」。これは、前回の投稿「(1325)  コンラート・ローレンツ『ソロモンの指輪』(2) / 100de名著」に出てきたキーワードであり、今の日本にとっても大切なキーワードだろうと思った。
 
 いじめ、児童虐待、記憶に新しい事件としては、「相模原障害者施設殺傷事件(2016/07/26)」「千葉小3女児殺害事件(2017/03/24)」「新幹線殺傷事件(2018/06/09」などがある。いずれも弱者を攻撃している。いずれにおいても、まさに「仲間を傷つけ苛むことを妨げる抑制」が効いていない。人間が人間を苦しめたり殺したりする行為は、本来は抵抗感があるものだと私は思っているのだが、まったく抑止力が効いていない。
 

 何故、こんなことが起こってしまうのか。私が想定していたのは、

(1)  痛みへの感受性の低下
 怪我をして痛い、病気になって苦しい、自分自身が受け取る痛みから始まり、他者の痛みを感じ取り、それを避けようとする感受性が低下しているのではないか

(2)  死に対する感受性の低下
 病院での死亡が増え、親しい人が死に行く姿を見る機会が減った。核家族化により祖父母の死に衝撃を受ける機会が減った。テレビやゲームなどでのバーチャルな死に馴染み、現実の死に対する感受性がなくなった。ゲームならリセットで人は生き返り、おもちゃなら電池の入れ替えで生き返るが、人間の死はそういうものではない

(3)  道徳心の低下
 「弱い者を傷つけてはいけない」と問われれば答えるが、実際には弱い者を傷つけて平気になってきたのではないか

(4)  忍耐力の低下
 我慢することができない。自分の欲望を満たしたり、嫌なことを避けたりするために、他人を傷つけることに躊躇が無い
 

 こんなことを考えていたが、「まだ書き切れていないものがある」感があった。それが、もう一つのキーワードで氷解した思いだった。「勝利者の社会的抑制に呼びかける服従の態度」である。
 
 これを少し書き換える。「支援してもらうことに対する、弱者の感謝の態度」の社会的欠落である。
 
 学校では、先生の生徒への暴力が取り上げられるが、取り上げられることによって改善の余地がある。しかし、生徒の先生への暴力や暴力的態度はひどくなっていると聞く。
 介護施設では、介護者の虐待が取り上げられるが、取り上げられることによって改善の余地がある。しかし、被介護者からの暴力や暴力的態度に、多くの介護者がさらされていると聞く。
 犯罪者の権利は主張されるが、犯罪被害者やその家族の権利がないがしろにされているという話がある。
 「タックス・イーター」(税金から支援してもらう人)の強い主張のもと、本来は重んじられるはずの「タックス・ペイヤー」(税金を納める人)が軽んじられ、彼らの権利が奪われていると私は思っている。
 

 「弱者を支援するべきだ」という主張に賛成だが、「弱者は支援されてあたりまえだ」「もっともっと弱者を支援すべきだ」という主張が強く叫ばれ、弱者を支援する立場の人に疲弊感、不満感が強く意識されるようになってきた。しかし、「弱者を支援しなくてよい」と考えている訳でないし、そう主張するわけでもない。イライラ感が社会に募っているのではないか。それが悪い影響を与えているのではないかと私は思った。
 

 そこから脱却するのは難しくない。援助を受けた人が、それを「有難いことだ」と認識し、素直に(心から)感謝の意を表すことが大切だ。
 
 「私は感謝している」と言われるかもしれないが、Aさん、Bさんのことを言っているのではない。また、冒頭にあげた事件の被害者たちに「感謝がなかったから、そうなったのだ」と言っているのでもない。そのような社会的な風潮があることが問題だと、提起しているのである。そして、それは勿論、個々人、Aさん、Bさんの課題に帰していく。

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