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2016年12月13日火曜日

(720) 「生きている価値が無い」(2) / 「人のいのちを奪うとは」(3)


 (717)からの続きである。

Facebookでいただいたコメントからスタートする。

===== 引用 はじめ

『殺してみたかったから』殺したという子どもがいますよね、精神障害であっても小さい頃から無条件に命は大切だと刷り込んでいれば不幸なことはおきないかもしれない、難しすぎるテーマだけど教育として絶対取り上げるべきだと思っていました。大いに論じて頂きたいです

===== 引用 おわり

 

二つのポイントに分けて検討する。

『殺してみたかったから』殺したという子どもがいますよね、

(1)   精神障害であっても小さい頃から無条件に命は大切だと刷り込んでいれば不幸なことはおきないかもしれない、

(2)   難しすぎるテーマだけど教育として絶対取り上げるべきだと思っていました

大いに論じて頂きたいです

 

先ず、

(1)   精神障害であっても小さい頃から無条件に命は大切だと刷り込んでいれば不幸なことはおきないかもしれない

「刷り込んでおく」ということが大切である。小さい時から、何回も話しておく。何か理由があってそうなのではなく、無条件にそうなのである。

 そのために必要なのは、子どもに対する教育というより、親に対する教育だろう。

 

次に、

(2)   難しすぎるテーマだけど教育として絶対取り上げるべきだと思っていました

しかし、実際には「刷り込んでおく」ことがないまま大きくなった子どももいる。すると、①「『無条件に命は大切だ』というけれども、どうしてそんなことが言えるのか」と疑問に思う子どもがいるのも、無理はない

 すると、こういう子どもに対して、どういう教育をすればよいか、という課題が発生する。

 一方、「刷り込んでおく」ことがないまま大きくなった子どもであっても、②『無条件に命は大切だ』ということを素直に受け入れる子どももいるだろう。

 この①と②の違いがどこから起こってくるかが分かれば、どのように教育すればよいかがわかってくるだろう。

 

 自然と②になる条件は、次のようなものであると私は思う。

(a)   自分が愛されているという実感を持っている

(b)   「嬉しい」「楽しい」という体験をしている

(c)   肉体的に、精神的に、「痛い」という体験をしている

 

なぜなら、

(a)   自分が憎まれると相手を憎もうとし、自分が愛されると相手を愛そうとする、そういうふうに人間はできていると考える。「自分が愛されている」という実感を持っている人は、相手を愛そうとし、相手を大切にする

(b)   「嬉しい」「楽しい」という体験は、「自分は生きている」と感じる源となると考えている。「嬉しい」「楽しい」という体験により「いのち」の存在を感じ取ることができるようになる

(c)   自ら「痛い」という体験が乏しいと、相手の「痛い」を感じ取りにくくなると考える。「痛い」と自分で感じることにより、「相手のいのち」の存在を感じ取ることができるようになる

 

実証されたものでないので、これは仮説である。

私は、この仮説は正しいと思っている。

 

「命は大切だ」と子どもの頭に押し付けても、あまり入っていかないと思う。
 
心と体への働きかけは、いのちの教育になくてはならないものだろう。

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